道徳武芸研究 実戦武術と競技試合(8)

 道徳武芸研究 実戦武術と競技試合(8)

中国では四庫全書という知の集大成ともいうべき本の収集事業が清の時代に為されたが、そこではあえて最先端の軍事技術書は入れなかったという。それは全書という形で多くの人の眼に触れて使われることを危惧したためとされる。優れた軍事技術とはいうならば大量殺戮の技術である。そうしたものは例え「善」のためでも、使われない方が良いと考えたわけである。歴史を重んじる中国では「善」「悪」が時代によって簡単に変わってしまうものであることを知っていた。一方で人を殺すことはいうならば絶対の「悪」である。人類の絶対悪ともいうべき殺人の前には相対的な善悪観などは無視して否定がなされても構わないと考えたのであろう。武術はあくまで殺人に係るものであるから、それを競技化して、巧みな殺人技術を競うことはけっして好ましいことではない。オリンピックも国を単位として争うことは国家意識の高まりを促すもので、世界の人々が等しく和合する道からは外れている。そうでなくても人と人が集えば争いは生まれるものである。それをあえて運動の場面まで持ち込むことは必要ないのではなかろうか。


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