宋常星『太上道徳経講義』(28ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(28ー1)

無の中の有は、大道の基本であるとされている。有の中の無は、大道の応用である。基本ということで言うなら、無の中に有があるわけではあるが、それは有として何か特定のものが存在していることをいっているのではない。また有の中の無とは、それは何も無いということではない。つまりこれらは大道の基本や大道の応用を言おうとするものに過ぎない。つまり、大道の基本も応用も、これらは共に「無」によって求められなければならない、ということなのである。終始「無」を基本としているわけである。「無」であるからそのもの自体を求めることはできないとしても、大道が実際に働いていることの事実において「実理」は求め得ないものではない。それは確かにそれ自体を見ることはできないが、それは造化の働として現れている。つまり生成の様子は見ることができても、そこに働いている「実理」そのものを見ることはできない、ということである。そうであるから聖人は、大道が実際に行われているところをよく極めて「道」そのものを知ったのである。つまり実在するもの(有)を通して、そこに働く「無」を探ったわけである。大道の基本も応用も自然に現前している。大道の有も無も自然に現れている。この章では「天下の渓」(あらゆるものが集まるところ)を「天下の式」(あるべきあり方)とする、とあるが、天下の「谷=渓」には、つまり有(いろいろな事象)を通して無(実理=大道)を求め得るという深い意味が込められているのであり、これは「理」を極めて「道」を知るということでもある。かつて老子はよく道を知る人として「上士」という語を出していたが、「上士」だけが本当に道を悟れるのであろうか。果たして「上士」だけが万法帰一の法則をよく理解し得るのであろうか。また虚霊の本当の信義に達しているのであろうか。「常なる徳」は「自然」である。ただそれだけであり、「常なる徳」が「自然」であること以外のことはない。「常なる徳」と「自然」とはいつも一体なのである。この章で老子は己を修めて、他者との適切な関係を得ることの方法としての道を説いている。


〈奥義伝開〉老子は第四十一章で「上士」の語を出して、「上士」は道を聴いたならばすぐに実践する、としている。また人々の中には「中士」「下士」が居て、これらは道を知ってもたいして重んじることがなかったり、まったく価値が理解できなかったりすろとする。ここで宋常星は道を体現しているのはすべての人であって、「上士」だけが道を得ているのではないと注意を促している。あらゆる人は道を得て、道の中に生きているのであるが、それに気づくことには違いがある。ある時に「下士」であった人も、機会を得れば道の重要性に気づくようにもなる。「谷」云々は第八章に「谷神」は「玄牝」であるとしているのと同じで、老子は自分でいろいろと動くよりも、静かにしていて集まって来るあらゆるものを受け入れる生き方を重視していたことが分かる。


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