宋常星『太上道徳経講義』(28ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(28ー3)

その「白」を知って、その「黒」を守るのは、天下の式である。天下の式とは常の徳そのままであり、無極へと帰ることでもある。


この世のあらゆるものには、全て「白」と「黒」といった理に分けることができる。ただ「白」「黒」といっても、白色や黒色に限っていうものではない。それは天に属することであれば「昼」と「夜」であり、例えば「昼」は「白」であり、「夜」は「黒」とすることができる。地に属することで「金」と「水」であれば、「金」は「白」で「水」は「黒」とすることもできる。物事には「明」と「暗」がある。「明」は「白」で「暗」は「黒」とすることができよう。また出来事には「善」と「悪」とがあるが、「善」は「白」で「悪」は「黒」とすることができる。これらは全て「白」と「黒」の理をいうものなのであって、白色や黒色に限ることではない。老子はここで「白」と「黒」を言っているが、それについての「知」と「守」の奥義をよく知らなければならない。つまり「白」を知るのは簡単であるが、「黒」を守るのは難しいのである。もし「黒」を守ることができなければ、「黒」の中に「白」を得ることはできない。「黒」を守ることがなければ、「黒」をして「白」に還元することはできない。これを老子は「その『白』を知って、その『黒』を守る」と言っている。それはまさに「黒」の中に「白」を生ずるということである。これは「黒」の本源である「白」に返って「白」に帰するということの奥義でもある。こうした奥義は、天にあっては月を見ても知ることができる。月の「魄」は本来「黒」いのであるが、もし日中に「魂」の「白」を得ることがなければ、夜に月の光は「白」く輝くことはないのである。月の「魄」の輝くことはないのである。そうして三十日目には晦(みそか)と朔(ついたち)の間、新月から新しく月が出る間に、月と日がひとつになって、新たに「白」い月の部分が生まれて来る。晦と朔の間は「虚」が極まっているところであり、魂魄が混沌としていて、天地の元気の存しているところなのである。つまり月の「魄」は自然の内に日中に「魂」を得ているのであり、日中に「魂=白」を得ていれば、自然に月の「黒」の中に「白」を生ずるのである。(さまざまな)「情」が(本来の心の働きである)「性」へと帰する。これが初めの三日である。この時、月は西から出てくる。月には一筋の光を見ることができる(二日月)。これはまさに一陽が初めて回復する(つまり「性」が初めて発現する)「一陽初復」の時なのである。そして八日になると上弦の月となり、月の白い部分と黒い部分が半々となる。それはいまだ「金」が「水」を生じようとしている時であり、ここにはまさに陽が長じて、陰が消えて行くことの深い意味がある。十五日になると「陽の体(乾体)」が完成する。月の光はもっとも輝き金・白に清らかな「水」が生じる(つまり水は腎であり腎が活性化される)。これがまさに魂魄が共に完全であることの奥義である。そうであるからここに純陽(純乾)の象(シンボル)を得ることができるのである。もし晦朔の変わり目を適切に「守」ることがなければ、陽・白の魂は、けっして陰・黒の魄を浄化することはできない。よくこの意味を知ること、それがつまりは「白」を知って「黒」を守るということなのである。修行者(養道の士)は、はたしてよく「情」を忘れて「欲」を取り去り、自己の才能をひけらかすことなく、感情を整えて、本来の自分の心である「性」とひとつになって、愚かな思いを捨てて純朴な本来の自己へと還ることができているであろうか。陰・魄を守るのが「黒」であり、そうであるから陽・魂は「白」となる。自ずから陽・魂は来て本来の自己に帰するのである。もし、迷いがあればそうはならない。陰陽が和することがなければ、陰陽は転じて純陽となることはない。つまり陰が陽に転ずることはないわけである。そうなると「黒」が転じて「白」となることはないわけである。聖人の「白」を知って「黒」を守ることを詳しく考えるに、それは一方だけに固執しないということであり、聖人が「黒」を「知」るのは、当然の理を知るのである。「守」るのは、当然の道を守るわけである。「白」を知って「黒」を守れば、あらゆるものに染められることなく、ついには「白」を失う心配もなくなる。そうであるから聖人はこれをして「天下の式」としているのである。「式」とは「法式」のことで、万民の規範となるようなものである。万事の準則となるものである。この「式」によることがなければ、「黒」を取って「白」に帰することはない。知ることなく、守ることのなければ、陽が長じて陰が消えるようなこともない。聖人とはつまりは「天下の式」である。君主たる人物は「君主の式」を守り、臣下は「臣下の式」を守る。父は「父の式」を、子は「子の式」を守る。「黒」と「白」とはまさに「天下の式」であり、好き嫌いの感情が起こることなく、「知」と「守」は等しい。「天下の式」に反したり、離れたり、とらわれたりすることがなければ、君臣や父子の天の理はそのまま乱されることがない。上下や尊卑の天の徳も完全で、真の常なる徳を人々は等しく知り、人々は等しく守るのである。民には異なった習慣はなく、国は異なった政治が行われることもないのであり、特別に異なるものは存していないのである。そうであるから「天下の式とは常の徳そのままであり」とあるのである。天下は聖人を「式」としているのである。つまり一人の「式」は一家の「法」となり得るのであり、一家の「式」は一国の「法」となるものでもある。一国の「式」は、天下の「法」となるべきものである。天下の「式」は、万世の「法」となるべきものである。天下、万世は等しく「知」り、等しく「守」ることができるのであり、陰・黒の魄は、陽・魂の白へと還ることが可能となる。「黒」が「白」に返る。その徳はつまり「常」なるものである。その「式」は永遠であり、天下後世において、永遠に存している。そうであるから「無極へと帰る」とあるのである。無極とは「無」と「有」の究極にあるものである。つまり聖人の「法」「式」は、すべては天地自然の理そのままなのである。人の心は本来、徳を有している。そうであるから永遠に変わることはない。無極とは無窮なのである。


〈奥義伝開〉ここでは前回の「雌雄」に変わって「黒白」が取り上げられている。そして老子は「黒」を守るべきものとする。「黒」は「玄」であり、全ての色を重ねると黒になるように、あらゆる色があつ集まったのが「黒」なのであるから、述べられていることは前回と同様である。老子は常に自分とは反対の立場のものを重視していた。自分の立場と反対の立場とがあってひとつの社会を構成していると考えていたのである。そうであるから反対の立場の人を抹殺するようなことを行うべきものではないとした。「天下の式」の「式」とは人間界の「法」のことである。一方「天下の渓」は自然界の道である。つまり「天下の渓」は社会にあっては「天下の式」となるのである。


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