道徳武芸研究 フラヌールとしての八卦拳(1)

 道徳武芸研究 フラヌールとしての八卦拳(1)

フラヌールとは「遊歩者」という意味である。始めは単に目的もなく歩くという意味で散歩のような行為をいうものであったらしいが、後には遊歩をして観察をし、思索にふけるような人物のことをいうようになり、自由な芸術家をいう言葉としても使われるようである。確かに歩いていると一種の「無」の境地を体験できる。これをシステム化したのが禅宗の「経行(きんひん)」であるが、日本ではそれを瞑想として積極的に行うことはしていない。一方、ティク・ナット・ハンなどは、これをウオーキング・メディテーションとしている。八卦拳もかつての名師の逸話などによれば、その多くが単に円周上をひたすら歩いていたという。彼らもまた「フラヌール」ではなかったのではなかろうか。また孫禄堂は『拳意述真』で八卦拳を易(八卦)に関連付けて、そこに「不可思議」があるかのように書いている。すなわち董海川は壁の側で静坐をしていたが、その壁が突然、崩れてしまった。しかし既に董はそこには居なかった、といった類である。孫の書きぶりからすれば、董は八卦拳によって易理を体得していたことで、身辺に生ずる天地の変化が予測できた、と考えていたようでもある。


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