宋常星『太上道徳経講義』(52ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(52ー3)
既にそこに「母」があるとしたならば、そこには「子」があることになる。その「子」があって、そしてその「母」が保護をする。そうなれば「子」の身は没しても、(「母」が守ってくれているので生きている間は)害を受けることはない。(宋常星は「「母」が守ってくれているので)亡くなるような危険を受けることはない」と読んでいる)
既に「道」が万物を生むことは分かっている。そしてそこには「母」があるとする。つまり万物は「道」から生まれているのであるから、「道」は「母」であり「万物」は「子」であるということになる。物は「道」から生まれるのであるから「道」と物とは同質であるということもできよう。「子」は「母」より生まれる。そうであるから「子」と「母」とは同質ということになる。つまり、そういうことなのであるから、どうして「道」のことを顧みることなく物の本質を知ることができようか。「子」と「母」は同質の存在であるから、どうして「母」を顧みることなく「子」のことを知ることができるであろうか。既に「子」のことが分かっているなら、「母」のことも重視されなければなるまい。「子」が「母」を離れることがなければ「母」も「子」と離れることはない。そうして「子」と「母」とが同じところに居たならば、そこには始めの「理」も、終わりの「理」もそろうことになるので、本源の「道」が得られることになる。そうなれば、この身が亡びるという害にあうこともなくなる、そうであるから「既にそこに『母』があるとしたならば、そこには『子』があることになる。その『子』があって、そしてその『母』が世話をする。そうなれば『子』の身は没しても、(『母』が守ってくれているので)亡くなるような危険はない」とあるのである。古の修行者は、常に「子」「母」をして「同居」せしめて「道」を行い、怠ることがなかった。そのため神気は安定しており、全てが整っていて、全身があるべき状態にあったのである。これは本来の自分に帰り得るべきの「理」を得ている(復命の理)状態なのである。これを身に用いることで本来の自分に戻るための修行となるのであり、これを家に用いれば家は整い、これを国に用いれば国をよく治めることができる。また、これを天下に用いれば天下は泰平となる。しかし、もしそうでなければ、それは本質を見失うことになるのであり「子」と「母」との離別となってしまう。そうなれば、その危ういとは明らかである。
〈奥義伝開〉「母」が居れば当然のことに「子」が居ることになる。そして「母」が「子」を守れば「子」は危害を逃れることができる。これは当然のことである。しかし死を免れることはできない。これも当然のことである。老子は論理を進めて行って、当然に起こることを述べて行く。宋常星は「母」と「子」つまり「生」と「死」が渾然一体となっていて、生死を超越した状態になることを述べていると解釈しているが、それは後の仏教の影響を受けた仙道ではよくある考え方であるが、老子がここでそのように述べているとするのは適当ではあるまい。人はただ生きて、死ぬ。それだけのことである。