宋常星『太上道徳経講義』(51ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(51ー7)

そうであるから道は生み出されるものであり、徳は蓄わえらるものであり、成長させられるものであり、育まれるものであり、働きを成すものであり、熟されるものであり、養われるものなのであるが、またそれは覆われ(保護され)てもいる。(別訳 覆されてもいる)

ここでは「道」を尊重し「徳」を重視することの意味を明らかにしている。万物の生まれる「機」を蓄え養うことで万物は成る。それは陰陽の働きのエネルギーを蓄えることでもある。昼夜の変化は生成を助長し、五気が和することで万物は育まれる。こうして万物の形が完全なものと成る。神(霊的なエネルギー)は充分であり、気(物的なエネルギー)も足りている。そうなれば「熟」した状態といえる。また性(意識)と命(肉体)も乱れることなく保たれることになる。これが「養」われている状態である。そして万物が守られているのが「覆」われた状態である。これらの奥深い働きは、始めや終わり、本末や体用(注 基本と応用)といった区別を持ってはいない。全てが一体となって養い育てられているのであり、そこにあっては「道」は十全な働きをし「徳」も等しく十全である。そうであるから「道は生み出されるものであり、徳は蓄わえらるものであり、成長させられるものであり、育まれるものであり、働きを成すものであり、熟されるものであり、養われるものなのであるが、またそれは覆われ(保護され)てもいる」とされているのである。


〈奥義伝開〉ここでは「徳」とされる事柄の傾向性について、蓄える以外にいろいろなもののあることが示されている。全体として生成の働きを助けるようなことが「徳」であると老子は考えていた。老子は見出されるべき「徳」は、万物の成長を助長し、促すようなものであるべきと教えるのである。当然「善」もそうした方向で捉えられている。最後は原文では「覆之」とあり「これを覆(おお)う」と読むのが一般的であるようであるが、「これを覆(くつがえ)すの方が妥当と考える。例えば見出された「徳」は決定されたものではなく、間違っていることもあるということである。つまり「徳」として一般に認められているようなことも、実際は「徳」ではないことがあることに最後に注意を促して次へと続けているのである。


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