宋常星『太上道徳経講義』(51ー8)

 宋常星『太上道徳経講義』(51ー8)

それは生まれても、そこにこだわることではないのであり、何かを為してもそれにとらわれない。功績があってもそれを誇らない。こうした徳を玄徳という。

ここで述べられているのは「道」を尊重し「徳」を重視することの大切さであり、それがより明らかにされている。つまり、それは「造物の妙」を観ることなのである。そこには形もないし、シンボルもなく、動くことも働くこともない。そして「性(本来の性質)」はそれを完全な形で有されており、物であり、空であり、有であり、無でもあって、それらが渾然として一体となっている。動、静、虚、実、それらが生まれるのは等しく「機」によっている。つまり生まれるべきものは生まれるのであり、物が生まれるのは、それが意図されて為されているのではない。物は生まれるが、そうしようと誰かが意図して生み出されるのではないのである。まさにそれは自然の働きなのである。そうであるから「それは生まれても、そこにこだわることはないのであり」とある。既に物が生じているのであれば、それは自然に為されている。もちろん形があれば、そこには形を作ることのできるエネルギーがあるであろう。万物の造化には原因と結果があるが、それらが意図して為されることはないのである。意図なくしても適切に行われるし、意図なくしても働きを有している。こうしたことは特に言わなくても、分かるであろう。造化は無為であってもあらゆることを行っている。そうした物事を成す力があっても、それにこだわることはない。これは、まさに自然に物事が成されているからである。こうしたことを「何かを為してもそれにとらわれない」としている。既に物事が生まれて、行われている。そうした中で自然に万物の中核となって、万物を育てているのが「至道の妙」であり、それは大きくもなく、小さくもない、「至徳の理」であって、尊卑を比べることも出来ず、存在はしているが、その本質を特定することはできない。物として現れてはいるが、その本質の働きは自然のままである。万物の中核となっていても、自らはそれを意識することはなく、無為にして万物の中核となっている。またその働きはあらゆるところにまで及んでいる。こうしたものを「玄徳」という。そうであるから「こうした徳を玄徳という」とある。つまり万物おいては「徳」

が重視されるのであり、そのことが「玄徳」という語で表現されているわけである。つまり、この章では道は尊重され、徳は重視されるものであることが説かれているのであるが、ただ、そうであっても「道」が自分で自分を尊いものと考えているわけではない。「徳」も自分で重要なものと思っていることはない。そうでなくても「道」は尊重されるのであり、「徳」は重視されるのである。つまり、それが自然であるからである。万物は「道」を尊重し「徳」を重視する。これもまた意図することなくそうなっている。つまり自然にそうなるのである。今の人は自分を尊いものと考えているのではなかろうか。そうした考えは棄てて、あらゆるものと自分は等しいことを知らなければならない。そして民衆と「徳」を等しくしていることを知るべきである。そうなれば(その人の心には)自然にして「道」が生まれ、「徳」が蓄えられる。そうなれば必ず万物から尊ばれるようになるのである。


〈奥義伝開〉最後は先にあった「覆す」の意味が説明される。「徳」といってもそれに執着してはならない、ということである。常にそれが適切であるかを考えていなければ本当の「徳」を得ることはできない。政治でいえば王制から立憲君主制、そして共和制と「徳」は見出されて来た。現在は、こうした中で共和制が最も優れたものとされている。かつては無政府(制)や共産制が共和制のより進んだものとして考えられていたが、現在では否定される傾向にある。武術では「剛」から「柔」へと変化をし、制圧から防御そして回避へと進もうとしている。従来、武術は争いを制圧する技術と思われていたが、その場合は往々にして技術を学ばないでも筋力のある者には武術は通用しない、ということがあった。しかし、武術が争いを回避するためのものであるとしたならば、そこには何らかの技術が必要である。ここに武術の本来的な意義があるわけである。


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