宋常星『太上道徳経講義』(51ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(51ー1)

「道」は「徳」の本であるとされている。「徳」とは「道」を実践した結果である。万物は「道」に依っているのであり、それは身体を通して世に実践される。自己が行って他人に及ぼされる。これらは全て「道」の流れの中にあるものであり、そこに「徳」が現れている。天下の物にあって「道」から生じていないものはないし、その存在が「徳」として現れていないものはない。そうであるから「徳」は天下の至尊であって、至貴なのである。どのようなところでも「徳」の存していないところはない。それはどのようなところにもあるのであって、その大きいことは天地に比べるものもない程であり、その小さいことも比類のないのであるが、全ては自然に存している。そこには作為もないし、何かを成そうとすることもない。あえて「徳」はそれを実践されることもない。こうした(自然に実践される「徳」の)ことを「玄徳」という。ここでは、天地の万物は全て「道」から生まれているのであり、「徳」でないものはないことが述べられている。「道は生み出されるものであり」とあるのは、ただ「道」は存しているということだけではない、ということである。「徳は蓄えられるものであり」というのも「徳」はただ「徳」というものがあるのではない、ということである(注 「徳」は実際に現れる時には「善」や「仁」などいろいろな形となる)。「道」はただあるのではないからこそ貴いのである。「徳」が行われている時にはその存在は忘れられている。そうであるから「道」は限りなく尊く「徳」は貴ばれるのである。


〈奥義伝開〉「道」とは道理、法則のことである。老子は人がそれを見出すことで本来のあり方に戻ることができると考えた。それを具体的に表したものが「徳」である。そうであるから実際に「徳」として表されるものは実に多岐である。天地に働いている法則は全て「徳」であり、それを人類は見出して来た。ブラヴァツキーの神智学では人間の霊的進化を唱えているが、それはどうやら霊的な器官を開発して「超能力」を得ることにあると考えていたようである。こうして「進化」した人間が生き残って、未来には「超人」だけの世界になると考えていたのかもしれない。一方、老子は道理、つまり新しい概念を見出すことにより人類は本来の姿を取り戻すと考えた。老子以降は「人権」であるとか「自由」であるとか、いろいろな「道」が見出されて、そうしたものが保証される社会が好ましいと思われるようになって来ている。そうした意味では我々の社会も「進化」しているということができるのかもしれない。


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