宋常星『太上道徳経講義』(50ー9)

 宋常星『太上道徳経講義』(50ー9)

シ(野牛に似た一角獣)もその角で突くことはできず、虎もその爪を立てることはできないし、軍もその刀を振るうことはできない。どうしてか。それは「死」すべき状況にないからである。

ここでは、まさに「無死の境地」について述べている。本来的に人は清浄であるので急速に「死」へと向かうべき状況にはない。それがあるのはただ情欲の存するところにおいてのみである。生と死を分けるのは動静にある。行為において情欲による動静の乱れを制することができていれば、「生」の境地にあるとすることができよう。そうなれば「死」の状況にはないことになる。そうであるから善く生を得ている人は、情欲のとらわれから離れており、妄執を棄てて真実を得ている。そしてその動静も禍福において適切であり、進退もその安危を見て行われる。そうであればシや虎や軍隊にあうこともないわけである。もし、そうしたものに出会ってしまっても、シの角に突かれることはなく、虎は爪を立てることもない。軍隊は刀を持っていても、それで斬られることはない。こうしたことが起こるのはどうしてか。それはただ善く「生」を得ているからである。心身の内外において「死」すべき状況がないからである。そうであるからシにも虎にも軍隊の刀にも害せられることはないのである。こうしたことを老子は「どうしてか。それは『死』すべき状況に居ないからである」としている。まさに世間の人を見るのに、ただただ名誉を求めて、ひたすらに利益を追っている。ぜいたくな衣食を貪り、美味を味わい、欲望を満たそうとする。こうしたことは全く貪りの中にあるのであって「死」をも恐れない行為といえよう。こうした人は「生」を貪ることを知らないで、ただ「死」の道をひたすら歩んでいるのである。情欲の貪りの心から発せられる思いだけにとらわれて、心は害せられ、性も本来の働きすることはできない。意識は不安定で、感情は乱れている。こうしたところには自ずから「死」ぬべき状況が生まれることになる。そうなればシや虎や軍隊の害から離脱することができないばかりではなく、あらゆる場面で災害や不幸にあうことにもなろう。つまり天国も地獄も全ては心の状況によって決まるのである。生も死もそれは、すべて性が天の理のままであるかどうかによって決まるのである。意識を静めて(抱神以静)、欲望に気持ちが乱されるれることなく、欲望のとらわれそのものから離れてしまう。情欲は心を害することはなく、常に清く常に静かである。そうなればシもその角で突くことはできないし、虎も爪を立てることはできない。軍隊も刀で斬ることはできなくなる。こうして天地と等しい境地を養う。これはまさに情欲の鳥篭から脱するようなものであり、輪廻の生死から離れることなのである。


〈奥義伝開〉要するに猛獣や軍隊といった圧倒的な力によって生まれる危機的な状況にあって生きていられるのは、生きている状況にあるからであると、老子は教えている。それは何ら不思議なことではない、というわけである。ただそうした状況がどうして生まれるかは、問わない。それは「自然」にそうなっている、と考える。考えても分かりそうにないことは考えないのが老子である。また新しい知見が得られたりして、そうした問題の答えの得られる状況になれば「なぜ生きるべき状況と死ぬべき状況が生まれるのか」といった疑問を考える時機が熟したと見る。問題もそれが解けるべき状況にあれば、解くし、そうでなければ当面の事象に対処するだけで充分であると考えるのである。


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