宋常星『太上道徳経講義』(13ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(13ー4)

何を謂う、大患を貴ぶは身のごとしと。吾ゆえに大患有り。吾に身有る為に、吾に身無きに及べば、吾に何の患有らん。

ここでも重ねて冒頭の文をあげている。世の人は「患」が「貴」より生じていることを知ることはない。「禍」は「福」から生まれる。ここで「貴き大患は身のごとし」とあるのは、人がこの世に生まれて、身を持つとそこに「患」が生まれるということである。この身をして「患」を思うならばこの身は「患」が形となったものということにもなろう。逆に「患」をしてこの身を考えたならば「患」はまた身に沿う影のように離れることのないものとなる。そうであるから「患」と身とは不可分の関係にあるのであり、これらを離すことはできない。そうであるから「大患」とあるのは、それが吾にこの身がある限りは離れることがないために他ならない。もし吾にこの身が無ければ、「大患」も存することはできないのである。そうであるからここに「貴い大患とは身のようであると、はどういうことか。それは自分の身があるからこそ大患があるのであり、つまりは自分が身を有しているからこそ大患があるわけなのである。もし自分に身が無ければ、どうして患の生ずることがあろうか(何を謂う、貴き大患は身のごとしと。吾ゆえに大患有り。吾に身有る為に、吾に身無きに及べば、吾に何の患有らん)」としているのである。人がこの世に生まれてくることを考えてみるのに、人は生まれるとその形に捉われることになる。そうであるから飢えを感じることもあるし、どうしようもなく寒かったり暑かったりすることもある。生きること、老いること、病気になること、死ぬことへの不安を常に抱いている。そうであるから身を「患」うとしている。衣服をして寒さを防ぎ、飲食をして飢えをしのがなければならないのはすべてこの身があるからである。そして生まれれば必ず老いることは当然であるのにそれをよく分からず心配し、病気にかかれば亡くなることのあるのは当然であるにもかかわらずそうしたことも理解していない。これらはただ陰陽の変転において起こっていることにすぎない。人はこうした造化の順逆の理から逃れることはできないのである。命が終わり身が滅んで行く時、これは「大患」に帰しているということができる。ただ聖人には好悪の私欲がない。寵辱を受ける微妙な「機」を知って、身とは患であり、患はつまり身であると見て、この身は「患」から離れることはできないことを知っている。特に長生きをしょうとも思わす、高い地位を望んだりするような心の生ずることも一切無い。まったく「寵辱」への思い起こることがないのである。そうであるから清浄、自然の身をして我が身としている。得ることを「貴」ぶことも無いし、失うことを「貴」ぶことも無い。聖人が「貴」ぶのは「性」の中(庸)であり、そのままの清らかさ、ただありのままであることで、ひとつとしてそこに特定の行為へのこだわりはない。太虚は「一」であり、そこに何の「寵」があろうか、何の「辱」があろうか、何の「貴」があろうか。何の「賤」があろうか、何の「得」があろうか、何の「失」があろうか、何の「驚」があろうか、何の「患」があろうか。物も我をもともに忘れる。性と天地とが、「一」となり自然となっているだけである。


〈奥義伝開〉「身無き」とは自分と社会との関係を断つということである。この身が「寵辱」の働きが効果を持つ社会に居るからその影響を受けるのであって、その埒外に居れば全く関係のないことになる。権力者から寵愛を受けそうになったら、その「機」を見て国を去れば良い。陵辱を受けそうになっても同様である。我々の生きている空間はいろいろなシステムの中に取り込まれている。これからうまく離脱することがより良く生きて行く上で大切なのである。もし、この「身」が離脱することができなくても、心が離脱していれば寵辱を受けても「驚」くようなことはないわけである。


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