道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(3)
道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(3)
安土桃山時代、大津地域には穴太(あのう)衆という石垣作りの職人集団が突如として生まれる。歴史学的な研究では先に寺院などの石垣を作っていたのでその技術が応用されたと推測するが、寺院の石垣と城郭の石垣では一般住宅と高層建築ほどの違いがある。その差を一気に埋めて、しかも城の石垣の建築は急速に全国に広がっていく。穴太衆は各地に出向いて石垣を作っていったという。高度な石垣を積み上げる技術はどのようにして伝えられたのか。それは石を積む「感覚」を育てる方法が穴太衆の間に伝承されていたからではないかと考えられる。始めの頃の石積は野面(のずら)積みといって自然石をただ積んだだけのものであった。こうした方法であればより「感覚」が重視されることであろう。円珍がもたらした「御信用之手」は三井寺に伝えられ、中世には僧兵の武技として展開したのではなかろうか。そして近世には穴太衆が石組みの技術として展開をさせた。そう考えることもできるのではないかと思っている。