道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(1)
道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(1)
合気道のベースである大東流、そしてその根幹をなす「御信用之手」(合気上げ)については先の新羅明神に考察を加えた稿において触れた(御信用之手と合気上げの違いにも言及している)。新羅明神は合気道、大東流の霊的系譜を考える上でひじょうに重要な存在であることはいうまでもあるまい。ここでは御信用之手の本来が知を開く技術であったことについて述べようと思う。知を開くとは、簡単にいえば微細な感覚を育てるということである。こうした細かな感覚を育てることができれば、いろいろな学問でも技術でも深いところまで習得することが可能となる。よく上達法を説くシーンで、たとえば武術の達人が、他の分野の人を指導しようとしても、なかなか成功しないのは、どの分野においても高いレベルに達するには、感覚と技術の二つが必要であるからに他ならない。武術の達人は武術という技術と感覚においては優れている。そうであるから感覚の部分で他の分野の人を指導することは可能であるが、技術を教えることは当然できない。野球選手などが例えば密教の修行をして啓発され、後に大きく成績を伸ばすようなことがあるのも、感覚の部分である種の覚醒を得たからなのである。