宋常星『太上道徳経講義』(14ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(14ー2)
これを視ても見えざる。名を夷(い)と曰(い)う。
道には形はない。それを視ようとしても見ることはできない。それを「夷」と言っている。「夷」とは変わるということで、これは大いなる変化のことで定まった形を持たないことなのである。人が見ることができるのは一定した物である。見ることができないのは「道」である。つまり、見えないからこそ、それは「造化の中核」であり、あらゆる物の根源なのである。もし、見ることができたなら、それは単なる物ということになる。そうした物を天地の始めとすることはできないし、万物の母とすることもできない。そうであるから「視ようとして見ることができない。その名を夷という(これを視ても見ず。名を夷と曰う)」としているのである。道には形がなく、見ることはできないとはいっても、もし内に、その心を観れば、心は心ではなく、外に形を観れば、形は形ではない、物も我をも忘れて、内も外も空となる。そこに道を見ることは可能となる。
〈奥義伝開〉最後に静坐による「道」の感得について述べられている。宋常星は「空」を感得することが「道」の感得となるとする。このあたりは禅の影響といえようか。あえていうなら「道」そのものは感得することはできない。これは「空」も同様である。一種の神秘体験としてそれを感得したかのような誤解を得ることはあるが、それは感得し得たという事実をして「空」ではない(相対的、固定的な存在となる)し、「道」でもない。一箇の限定された観念に過ぎないのである。これは仏教との大きな違いで、静坐においては悟りのような究極的なものを求めることはなく、常に生じてくる事象に適切に対処できる状態が得られれば良いとする。