宋常星『太上道徳経講義』(13ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(13ー2)
寵辱は驚くがごとく、大患を貴ぶは身の如し。
君主に仕えてその恩恵を被る。こうしたことを「寵」という。位を失い、禄を失い、職場を奪われ罰を受ける。こうしたことを「辱」という。そうしたことを恐れることを「驚」という。心が憂鬱であるのが「患」である。君主と臣下との間の得失をいろいとろ考えてみるに、君主からよく思われ、寵愛を受ける、それは喜ばしいことであると同時に恐ろしいことでもある。喜ばしいのは高い報酬が得られ、高い位に登ることができ、功名が得られるからである。恐ろしいのはそうしたものは常に失うことがあることの恐ろしさである。毀誉は決して等しいものではない。そうであるから、あるいは少しでも寵愛が得られたならば、それを失う恐ろしさはあるし、そうした危険がまったくないとしても、心のどこかには君主の寵愛を失うのではないかとする恐怖は兆しているものである。自分の中に自然とそうした心が発生しているのに「驚」くかもしれない。このようにまだ現れてはいないことまで自ずから思いが及ぶことを「寵愛を受けていても陵辱を受けるのではないかとする心が自ずから生じていることに驚く(寵辱は驚くがごとく)」としているのである。もし寵愛を受けたとしても、それを特別に喜ぶことはなく、もし陵辱を加えられたとしても、寵愛を失ったことを憂えることはない。普通の人は栄誉を受けたり高い位に昇ったりすることを極めて好ましいことと思っているが、私はそれを大いなる患いにかかったようなものと思っている。そればかりではない。四大(地、水、火、風)がかりに寄って出来ている我が身もまた、大いなる患いの産物と考えている。ただこの身を大いなる患いと考えるばかりではなく、その心の働きも大いなる患いと考えている。これは「根源的な患ではない寵辱のような大いなる患いを貴いものと考えるのは、自分の体がそうであるのと同じであるからである(大患を貴ぶは身の如し)」のであり、そうであるから何かを得ても患うことなく、何かを失っても患うことはない。自然のままに、どのような状況であっても無心であれば、どうして得失を憂えることがあろうか。それは寵辱にあっても同様であるので「大いなる患いを貴ぶ(尊きこと大患)」としているのである。
〈奥義伝開〉ここで老子は当時の諺で使われていた「大患」を反対の意味に解して新たな思想をここに加えようとしている。本来の諺では「(権力者に取り入って)寵愛でも辱めでもそれを受けたら心はびっくり驚くが、その大患(わずら)いがありがたいのはこの身にも及ぶことにある」というような意味で、権力者から愛されても、嫌われるのはても、心は不安で、その影響は自分の生き死ににも及ぶことになる、と警告するものであった。しかし、老子は「権力者から愛されたり(寵)、嫌われたり(辱)すれば共に心が穏やかではいられない(驚)。愛されれば喜んで平穏ではないし、また何時それが失われるかと思うと不安も募る。一方、嫌われれば、どのような処遇をされるか分からないという不安がある。しかし、こうした「患」は、気にする必要のない貴ぶべきものとして思っていれば良いのである。そうであるからこれを「患」としないで「大いなる患(大患)」と呼ぶ。これは決して失ってはならない自分の身体くらいに貴いものと考えて奉って放っておけば良い」と解している。要は権力者からどのように評価されようと関係ない。それは貴い我が身以上のものではなく、我が身をどうこうできるようなものではない、ということである。