宋常星『太上道徳経講義』(13ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(13ー5)

故に貴きは身をもって天下となす者、もって天下を寄すべし。愛するは身をもって天下となす者、もって天下を託すべし。

聖人は生きて行く上で、我が身を貴ぶこともないし、愛することもない。どうして天下を貴んだり、愛したりすることがあろうか。自分を貴いと思う心がないので、天下も貴いとは思わないし、自分を愛することがないので、天下を愛することもないのである。自分を貴ぶことなく、愛することもなければ、その身を忘れることになる。つまりこれが無為の道なのである。無為の道をして天下に臨めば、治まることのない天下はない。しかし身を貴ぶ心をして天下に臨めば、たとえ天下を得たとしても長持ちのすることはない。身を愛する心をして、天下に臨んだならば、たとえ天下を得たとしても、一時的に留まるだけになろう。誰かが物(天下)を自分に託したとして、自分はそれを一時的に預かったに過ぎない。最終的に自分の所有物ではないのである。ここでは「我が身を貴いとするように天下を貴ぶ人には天下を預けるべきである。我が身を愛するように天下を愛する人には天下を託するべきである(貴きは身をもって天下となす者は、もって天下を寄すべし。愛るは身をもって天下となす者は、もって天下を託すべし)」とある。人がこの世に生まれてくることを考えてみるのに、それば走っている白い馬が壁の隙間から、ちらりと見えたようなもので、すぐにやって来てすぐに立ち去ってしまう短い人生である。天下を貴いものとし、世界の財宝を望むのは、すべて長生きをして死なないと思っている者のようである。人の生きることの理を悟らなければならない。虚静、恬淡(心静かで無欲)、自牧(修養する)をして貴んだり愛したりすることを忘れる。そうしたことをしないで、その身に「大患」の降りかかることを、どうしてそのままのして良いものであろうか。


〈奥義伝開〉宋常星は自分を貴んだり、愛したりしない人に天下を任せるべきとしているが、むしろそれは反対で自分を貴いと思い、愛する人のところにこそ天下は任せられるべきであると老子は感がていたと思う。つまり、自分自身が天下と等しい価値があると分かっている人、自分自身を天下と等しく愛している人、そうした人物には自然と天下の統治を任せられる、と老子は言っている。それは「天下」というシステムと、「身(個人)」というシステムは本来的に同等であるからである。この時「身」と「天下」は同じ原理で動いているので、共にそれは無為自然である。老子の考える統治とはいうならば無政府主義的なもので、統治者はあっても「統治」をすることなく、自ずから天地の造化による秩序化(天の星がまったく時刻を違えることなく運行していたり、季節が変わること無く秩序だって移り変わるように)に委ねらればよいものなのである。これはまた当時の統治者に対するアンチテーゼでもある。国を統治できる者は無為でなければならないのに、統治者は自分勝手なことばかりをやっていることを批判しているのである。


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