宋常星『太上道徳経講義』(12ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(12ー4)
五味は人の口をして爽(ほろぼ)さしむ。
「五味」とは、酸、鹹(かん 塩辛い)、苦(にがい)、辛である。およそ飲んだり、食べたりすると、これら「五味」を味わうことになる。味は舌をして感じるのであるが、それは煩わしいものでもある。しかし何が美味であるのかを知ることは容易である。それも五味と同様に舌の感覚によっているのであるが、これは人が本来、持っている性質から来ているということができるであろう。しかし、五味の感覚はそうではない。それは味の本質である美味かどうかを知ることからすれば余計なことなのである。もし、舌が「五味」を感じることがなかったならば、人の本来の性質において、ただ美味であるかどうかを感じるだけとなる。しかし、もし五味にとらわれてしまえば、それが人の本来的に持っている感性を狂わせることになる。ただ美味なものでも、それを貪れば、正しい味の感覚が失われてしまう。どのような豪華で珍しい料理であっても、それを貪って正しい味わいの感覚を忘れてしまえば、それはここにあるように「食べ物も五味の区別にこだわり過ぎると本当の味わいを感じることができなくなってしまう(五味は人の口をして爽(ほろぼ)さしむ)」ということになる。孔子は「粗末なものを食べて水を飲む」としも「そうした中にも楽しみはある」(述而篇)と述べている。孔子は本当の味わいをどのように味わうかを知っていたのである。修道の人において常に聞かれるのは「あまり味のしない大根や芋を食べても、それはそれで味わいがある」ということである。それは、あらゆる味は舌で感じて初めて生まれるのであって、本来的に食物自体に味が存しているわけではない(空)ということである。百味は空であり、自然のままを味わっていれば、そこに病の存することはない。もって戒めとすべきことである。
〈奥義伝開〉本来、必要なものは「自然」の中にあるのであり、それに余計なものを付け加えることは誤りであると老子は教えている。人は調味料を考え出して、あえて五味のひとつを突出させ得ることができるようになった。最近は激辛などということも話題になっている。こうしたことを行なうには五味の区分をして「辛」という味を強調させるようにしなければならない。これなどは完全に自然のバランスから逸脱する行為である。こうしたことがあらゆる食物に及んでいる現代では「味覚障害」となる人も多いようである。これはまさに自然の味を離れて調味料によって「五味」をコントロールしたために発生したものと考えられる。