宋常星『太上道徳経講義』(12ー5)
宋常星『太上道徳経講義』(12ー5)
馳駆、田猟は人の心をして発狂せしむ。
「馳」とは馬を速く走らせることである。速く走る馬は一目散であるからこれを「駆」という(注 馳も駆も同意。「也」は走る馬の背中がうねっている様子、「区」は打つの意で馬を打って走らせている様子を示す)。春には耕し、夏には苗を植える。秋には秋の獲物を狩り、冬には冬の獲物を狩る。こうしたことを「田猟」といっている。古代には獣が多かったので、狩りは作物を守るためであった。そうであるからここではむやみな狩りをしてはならないと戒めている。または田野であっても、山川であっても、所構わず猟犬を走らせて、むやに狩りをしようとして、東西南北、あらゆるところに獲物を追って心を移す。そうしたことは心を適切に用いることのできない狂人のすることであるとする。つまりは「見境もなくどこにでも出ていって、狩猟をするような人物は、狂気に陥ったといわねばならない(馳駆、田猟は人の心をして発狂せしむ)」とはこのようなことを言っている。まさに万物は、すべてが「天地一気」によって生み出されているのであり、ただ清濁や偽正の違いがあるに過ぎない。人でも物でも等しく「形」を有しており、これらは等しく「気」で出来ている。これらには等しく「性」があり、等しく「命」がある。人は生まれながらに自然に有している「性命」(心と体)をもって正しい道を歩むことができるようになっている。こうした自然な行為の中に「田猟」は含まれない。
〈奥義伝開〉宋常星は「田猟」を耕作と狩猟の意と解しているが、「田」は区画を示す字であり、それは耕作地の区画と狩猟地の区画の両方の意味がある。そうであるから「馳駆、田猟」は「馬を駆って猟をする」の意とするのが適当である。老子は生命は天地の造化によるものであるからそれを傷つけることを最も嫌っていた。ここでも動物の命を遊びで奪う狩猟は人の生命倫理感覚を狂わすものとしている。軍隊で制服や規律が欠かせないのは、そうした枠に強制的にはめ込まないと、人の本来の「性命」の働きが出てきて人を殺すようなことはできなくなってしまうからである。