宋常星『太上道徳経講義』(12ー7)
宋常星『太上道徳経講義』(12ー7)
これをもって聖人は腹と為して、目と為さざる。故に彼を去りてこれを取る。
「これをとる」の「これ」とは普通の人をして聖人のようにさせるもののことである。そうであるから「これ」は「腹」であり「目」とはしない。その理由はこれまでに述べられている。陰符経には「心は物に生じ、物に死す」とあるが、こうしたことの「機」はすべて「目」にある。人は何かを「目」にすれば、それに影響される。物よって死ぬ、と陰符経にあったがそれは、まさに「目」によって影響を受けることの「機」をいっているのである。人が物事を忘れ捉われなくなるのは「目」によって得た情報から解放されるのであり、ここには大いに徹底した悟りを得ることのできる「機」がある。まさに「眼、耳、鼻、舌、意」とされる感覚器官は、共に感覚認識を行なうものであるが、そうして得られた情報は全て「幻」である。ただ自分の「性」の中の「本体」だけが「真空」であり正しく情報を判断できるのである。そうであるから聖人はそれを「腹」とする。「腹」とは「性」を養うことの「本体」のことなのであって、それを「目」とすることはない。忘れ、捉われから脱せられる物とは「目」を通して認識した情報である。そうした情報を貪ることもないし、影響されることもない、全ては幻であるとの悟りを得る。全ては正しい認識ではないので、これらは捨て去られるべきであると悟るわけである。こうしたことを「彼を去り」としている。既に「腹」の中の「性」の本体が全ての正しい情報を得るもとであると分かったならば、よろしく「目」ではなく「性」の本体の働きを重視されるべきであろう。そうであるから「これを取る」としている。それは取り去るべき心の本来的な働きではないものを取り去り、取るべき心の本来的な働きを取るのである。これが「目と為さざる」と「腹と為し」であり「彼を去る」と「これを取り」なのである。これらは全て「自然の道」である。人には六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)があるが、ここではただ「眼、耳、口」の三つだけが述べられている。それは六根の中でこの三つが要となるからである。また六根において「腹と為して、目と為さず」を考えれば、「目」の働きを内に向け外からの情報を遮断ると六根の全てが自ずから静を得ることになる、ということになろう。そうなれば六根のあらゆる「塵」を浄化できる。最後に「聖人は腹と為して、目と為さざる」に一言付け加えておいた。
〈奥義伝開〉「腹」とは身体感覚のことで、「目」は外部からもたらされる情報の意である。老子は身体感覚を取って、外部からの情報は取らないとする。こうした本源的な身体感覚のことを儒教では「性」といい、道教では「無為自然」とする。つまり「無為自然」であれば、本来的な「性」は誤ることなく働くわけである。究極的には自分が「良い」と感じたものがその人にとって必要なものなのであるが、我々は既に「目」からの情報により本来的な心身の働きを失いつつ有る。それでも「腹」の働きは生きている限り完全に失われることはないので、時には自分の内面の声を聴いてみることも必要であろう。