宋常星『太上道徳経講義』(13ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(13ー3)
何を謂う。寵辱は驚くが如し、と。寵を上と為し、辱を下と為す。これを得れば驚くがごとく、これを失いても驚くがごとし。これを、寵辱は驚くがごとし、と謂う。
ここでは重ねて前の文章を解説している。人々の注意を喚起しようとしているのである。つまり「寵」と「辱」の二つの極は、危険を転ずる災いの源なのである。先の文では「寵」と「辱」とは「驚」くべきものとあった。「寵」はこれを上のものとして人々は好むし、「辱」はこれを下しとして人々は悪んでいる。そうであるから誰でも「上」に行こうとして、「下」に赴こうとはしない。「寵」を求めて「辱」を避けようとするのである。ただ「寵」が何時得られるのかは分からない。思いもよらない時に得られたりもする。それは自分でどうにかなるというものではない。そうであればどうして安心していられようか。こうしたことがあるので「寵」を得るのは「驚くがごとし」とあるのである。「辱」については、これも何時それが訪れるかは分からない。それは自分ではどうしようもないものである。そうであるから自分で「辱」を捨て去ることもできない。こうしたことであるので「辱」を得るのは「驚くがごとし」としている。高い道を歩み、徳を重んじるような人は、「寵」「辱」については、これらを得てもそこに安住しようとは思わないし、それらを失っても悲しむこともない。つまりは無心の境地にあるのである。そうであるから「寵辱に驚くよう、とはどういうことか。それは寵を上として、辱を下とする。そしてこれらを得れば驚き、これらを失っても驚くようなことである。これを、寵辱に驚くよう、というのである(何を謂う。寵辱は驚くが如し、と。寵を上と為し、辱を下と為す。これを得れば驚くがごとく、これを失いても驚くがどとし。これを、寵辱は驚くがごとし、と謂う)」としているわけである。
〈奥義伝開〉権力者に限らず他人から良く思われたり、嫌われたりするのは気にならないことはなかろう。しかし、他人からの評価は人によっても違うし、時間や環境が変われば異なるものになったりもする。そうしたことに煩わされる必要はない、というのが老子の立場である。