道徳武芸研究 ショウ泥歩と白鶴亮翅(4)

 道徳武芸研究 ショウ泥歩と白鶴亮翅(4)

陳家では片手を挙げる白「鶴」亮翅はあり得ないと考えて「鵞」としたのではなかろうか。それを武禹襄が受け継いで「鵞」の方を本来の正しい字と考えたようである。そうであるとしても、どうして太極拳では片手を挙げる動作を白鶴亮翅としたのであろうか。それは老架を見れば分かる。丸い両手の形は片手を挙げる前にあるのである。ちなみにこうした動きのあったことは、古い歌訣の「全体大用訣」に「海底撈月、亮翅に変ず」とあることでも分かる。これは「海の底に手を入れて月を取る」という動きから「亮翅」に変化をする、という意味であるが「海の底に」という部分が、両手を斜め下に出す動きを示すものであることは明らかである。そして「亮」には「開く」という意味があるので、続いて片手を挙げる動きが翅を開く動作ということになる。ただ曽昭然の『太極拳全書』の拳譜では「亮」ではなく「日」に「京」の字が用いられている。これば「乾かす」「曝す」という意味で鶴が翅を乾かしている様子のこととなる。おそらく白鶴「リョウ」翅は本来は「日」に「京」の字であったのであろう。そうであるなら「全体大用訣」も「海の底に手を入れて月を取るのは、翅を乾かす動きでもある」と読むことができる。つまり「変亮翅」の「変」を海底撈月から亮翅への「変」化と考えるか、海底撈月がそのまま「変」じて亮翅となる、という意味にも取るかである。なにはともあれ「全体大用訣」で描写されている動きは老架完全に一致して矛盾がない。私見によれば、おそらく白鶴リョウ翅は海底針のような技であったのであり、「日」に「京」の曝すという意味が妥当と考える。つまり白鶴「リォウ」翅は、鶴が翅を乾かしているところを採っていると見るべきと考えるのである。


付記 『白鶴亮翅』(多和田葉子)という本が出ている。そこでは白鶴亮翅は「鶴が右の翼を斜め後ろに広げるように動かして、後ろから襲ってくる敵をはねかえす」技として解説されているが、これは余りに荒唐無稽である。


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