宋常星『太上道徳経講義』(50ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(50ー5)

人は生を重んじるものであるから、死へと向かうことから生へと転じることにこだわる人が、十人の内に三人くらいは居る。

【人は生を重んじるものであるから、死へと向かうことから生へと転じることにこだわる人もまた「十三」と関係している】

この文章を詳しく見ると「生」にとらわれている人も、「死」にとらわれている人も共に「七情六欲」にとらわれているのであるが「生」を求める人は、その害から脱していることが分かる。「生」の欲望にとらわれていれば、心は正しく働くことはないし、視、聴、言、動は少しも「七情六欲」から離れることができない。あらゆる行為において、そうした害にとらわれてしまっていれば、それは全く正しい行為をすることはできず、「死」の門へと急速に向かうことになる。本来的には「生」を求めていても、欲望にとらわれてしまえばかえって「生」を失うことになるのである。「死」を避けようとして、むしろ「死」へと向かうことになる。それは(あえて燃えやすい)麻の衣を着て自分で火を付けるようなものであって、自分で自分を害しているのである。あるいは薬を満腹になるほど摂るようなものであり、これも自分で自分を害していることになる。これらは「生」を求めてかえっておかしな行動をして、「死」へと向かっているものであり、すべては「六情七欲」のとらわれが原因している。そうであるからは「人は生を重んじるものであるから、死へと向かうことから生へと転じることにこだわる人もまた『十三』と関係している」とあるのである。人が生まれると、天により完全なる理が与えられる。父母から生まれた体は全く天地の理そのままで、頭は天を足は地を象徴している。性命、陰陽は大いなる道の理そのものである。人の行うべき倫理は天地に働いている理と等しくある。我が身の内外には、全て「生」の理が働いているのであり、本来的には「死」の働きは認められない。「死」の働きが出て来るのは、人の心が正しくない動きをする時で、そうなれば「死」へと向かうことになる。その原因は全く「六情七欲(十三)」にある。例えば異性の声や体に執着してしまえば、それは「死」への門となる。財貨に執着してしまえば、それも「死」へと至ることになる。好悪の感情にとらわれてしまっても、「死」へと至ることになる。僅かな時間しか生きることのない普通の人の体で「死」を迎えない者はない。正しく生きていても死ねば、肉体は滅んでも「性」は滅びることがない。形はなくなっても、理は残るのである。これが「死」というものである。「生」きていれば「死」ぬことになる。「死」んでいればもう「死」ぬことはない。「生」きている者が「死」ぬ、それは正しい「命」のあり方である。正しく人生の終わりを迎えれば、亡くなった後には、神識(たましい)は歩き回り、身心の制限を受けることもない。これが「死」んでも「生」きている、という状態である。もし欲望のままに生きていれば、心に「死」へと向かう原因が多く生まれることになる。好ましくない思いが不断に生まれる。こうして「生」に深くとらわれて、かえってその命を縮めることになる。あるべきでない行動をとることで、その身を害して「死」へと向かうことになるのである。それは例えば飛んでいる蚊が火へと向かうのと似ている。


〈奥義伝開〉最後の「三割」は、導引をしたり丹薬を飲んだりして不老不死を得ようとするような人である。いわゆる「回春の術」である。こうしたことを目指したいろいろな技術が中国では古代より延々と考えられたが、中世くらいからであろうか、不老不死はどうやら不可能であることが周知されるようになって来た。結果として不老不死は仙人でも最下等の「地仙」ということになって、天地の理を悟った仙人が最も優れた「天仙」、人の世の理を悟ったのが「人仙」とされるようになる。そして「地仙」は心に悟りを得ていないとされ、数百歳になっても「死にたくない」と嘆き悲しむといった笑い話が伝わっている。


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