宋常星『太上道徳経講義』(50ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(50ー4)

死にとらわれている人は、十人に三人くらいである。

【死にとらわれている人は、「十三」にある】

神が身を離れて、気も散じてしまうと人は死んでしまう。死にとらわれている人は「十三」と関係している。つまり「七情六欲」である。七情六欲を浄化する修行をする人は、生の門へ入ることができる。ただ生の門も、ついには死の門へと至ることになる。生と死の門との関係性は、人がどのように養生するかによる。世の人を見るのに、大体が生を求めている。そうではあるが死にとらわれている人は、全て情欲によって自分の真の心を失っている。情欲で自らの真性を失ってしまっているのである。それは情欲の害悪を知らないからである。そうなれば猛獣に害せられることもあろうし、また戦争で命を失うかもしれない。もし情欲に任せて、それに流されて生きていれば、情欲のままに生き死ぬことになる。一日中、情欲のままに生きることを心地よいと思って、あらゆる行動が、情欲のままに為されることになる。そして死へと日々、速やかに向かって、亡くなる時が迫ってもそれを知ることがない。七情六欲をよく知る者は、死へと急速に向かうことはない。そうであるから「死にとらわれている人は、『十三』にある」とされている。これは「十三(七情六欲)」が自らを害するのであり、その原因は貪りにあるわけである。それによって人間関係が崩壊してしまい、天の理の働くことはなく、自分だけの思いにとらわれてしまう。徳性は覆い隠され、生、老、病、死は正しきを得ることなく、ただに弊害をもたらし、諸々の穢れが覚えず生じてしまう。身の周りのあらゆるところに「死」の影が付きまとう。五臓六腑は、思わぬ時に病魔に犯され、次第に死へと至るのである。それは天の行うことではなく、全てが「十三(六情七欲)」のとらわれによっている。


〈奥義伝開〉死へのとらわれにある人とは網阿弥陀信仰のように死後の世界に救済を求めるような人のことである。こうした方向の考え方も普遍的に存している。「生」を深く考えると、どうしてもそれと切り離すことのできないものとしての「死」の問題に突き当たることになる。これは釈迦なども同様であった。「生」にこだわるのは人の本能でもあるが、「死」まで行くとそこに何らかの思索的なものが介入して来るので宗教的なものに触れることにもなる。これはただ安閑と「生」にこだわっているより危険な迷信に陥る場合がある。


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