宋常星『太上道徳経講義』(50ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(50ー3)

生にとらわれている人は、十人に三人くらいである。

【生にとらわれている人は、「十三」にある】

これは欲望のことを言っている。「とらわれている人」とは執着のある人のことである。「生」といってもそれは一つではない。「十三」の種類の情欲があるとされる。これらは全て生きることに執着しているために生まれるもので、「十三」とあるのは七情六欲のことであって、喜怒哀慴愛悪の欲と七つの情と眼耳鼻舌身意の六欲のことである。人の「性」は本来は清浄である。心の本来は霊明である。「性」は情を生み、心は欲を生む。情欲が正しく働かなくなると、自らの「性」を害するようになる。もしよく欲のとらわれを脱して、情が正しく働くようになれば、真を守って乱れることはない。「十三」とは、情欲のことであるが、それらも本来は清浄無為の道にあるものであって、正見、正知そのものなのであり、まさに「衆妙の門」なのである。またそれは「真一の理(注 おおいなる「一」の「理」そのものということ。天の理と同じ)」でもある。しかし、それは「十三」の地獄の門ともなり得るが、それぞれを超越すると、まさに身心は軽やかとなろう。そうであるから「生にとらわれている人は、『十三』にある」とあるのである。もし、少しでも執着があれば、必ずそれにとらわれてしまうことになる。そうなると心身にダメージを受けて、死の門へと入らなければならなくなる。


〈奥義伝開〉原文では「十有三」とあるところを宋常星は「十三」と読んでいる。これは一般的な読み方でもある。しかし、現在の多くの老子の研究者はこれを「十人に三人」と読む。そうしないと意味が取れないからである。「十三」とした宋はこれに七情六欲をあてるが、こうした概念は後のもので老子の時代にはなかった。「三割くらい」というのは大体のイメージである。よく健康に気をつけて養生に熱心な人は今の日本にも多く居るが、そうした人をイメージしている。古代中国では丹薬として水銀を飲んで中毒死した人も居た。現在のサプリの流行にも似たようなものを感じてしまう。


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