宋常星『太上道徳経講義』(49ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(49ー5)

聖人は天下にあって「ヂュツヂュツ(慎み深いという意)」としている。天下の人の心をその心としているのである。

人はこの世にあって、その身を有している。つまり「性」を持っている。それは「善」であるということができる。そして「善」であれば「信(まこと)」でもあることになる。「善」や「信」はすべて「性」の中に存している心の働きの「実理(現実世界で働いている理)」である。しかし、つまり「性」は「気」を受けて実際に行われようとする時に清濁の違いが生まれる。そして「善」と「不善」が生まれるのである。「信」と「不信」が生まれるのである。こうして、いろいろな様相が出て来るのであるが心の本来の形である。しかし、これと「混沌」とは全く違っている。つまり聖人でいうならば、天下に慎み深く対している。もし強いて天下に心の「混沌」を実践しようとしても、聖人のような慎み深さを保つことで「混沌」は実践されるのであるから、あえてそれを行うことはできないのである。もし、単に相手に流されることをして「混沌」たる心の状態としたならば、それは収拾のつかないことになってしまうことであろう。そうであるから「天性(注 人が本来受けている「性」)」は完全に保たれなければならないのであって、そうでなければその人の「善」や「信」は正しく実践されることがなくなってしまう。また「不善」「不信」たる人は、無欲、無為で、何事にもとらわれることなく、「混沌」とした「天真」に復するようにする。そして殊更には自己の「不善」や「不信」を示すことがないようにするべきである。


〈奥義伝開〉大阪あたりではスマートな男性のことを「シュッとした」というが、ここの「ジュツジュツ」もそうしたニュアンスを表す語である。意味としては文脈によって「恐れる」とか「誘う」などの意味として用いられた。老子がどのような音で慎み深くあるということをこの音に感じたのか正確なところは分からないが、読みとしては「チュツ」なので「ヂュツヂュツ」と読んでおいた。これは後の儒学では「敬(つつしみ)」という語で表されるものと同じであろう。聖人は無為(敬)であるから相手のことを受け入れることができる、と教えている


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