宋常星『太上道徳経講義』(49ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(49ー4)

世間で信(まこと)とされていることを自分も「信」とする。「不信」とされていることも、自分は「信」とする。これは「徳信」である。

天が与えて、人が受ける。それは実に「信」ということに尽きている。内には心と身、外には家と国、その「理」においては少しの違いもなく「信」が働いている。また「信」の「理」の実践においても全く内も外も同じである。つまり、それは人の「信」にあるのである。自己には自己の「信」がある。そして、それはあらゆるものに当てはまる。そうであるから相手を「信(しん)」ずることもできるわけである。もし「信」ずることができなく、努力して人の「信(まこと)」を信じようとしても、それは長続きするものではあるまい。天の「徳」をよく理解することなく、相手の「信(まこと)」を真に信ずることはできまい。ある時は信じられても、そうでない時もある。時には信じているように見せかけられても、それは本当の「信」の実践ではない。人間関係にあっては当然のことであるが、全く「信」をして対することもあれば、そうでない時もある。いろいろな事情によって「信」をもって対することができなくなることがあるものである。ただ、よく(「信」の根本である)「善」を知ったならば、結果として「信」をも知ることができるようになろう。自己が認識する「善」なるものを推し進めて行けば「信」へと至る。たとえそれが「不信」から始まったとしても、結果的には「信」へと至れるのである。それは「不信」なるものも「善」から外れるものではないからで、結果的にそれは「信」へと帰結する。つまり「信」とは「善」なのであって(注 根本的にはあらゆる存在は「信」である)、それは「徳信」と称される。「不信」もまた「善」なるものの中にあるのであって、これもまた「徳信」なのである。つまり本来的に「善」には「不信」は存していない。また人々は元より「徳信」を実践している。そうであるならどのような場合においても最後には「信」へ至るわけである。そして聖人が人を救うとは、人を「善」に導くことに他ならない。それはあらゆる人に共通している。そうであるから「世間で信(まこと)とされていることを自分も『信』とする。『不信』とされていることも、自分は『信』とする。これは『徳信』である」としている。


〈奥義伝開〉先とここで「徳善」「徳信」という語が出て来ている。この「徳」とは「道」を実践した行為のことをいう。つまり「善」や「信」が実践されたのが「徳善」であり「徳信」となるのであるが、ここでの「善」や「信」は善、悪や信、嘘(偽)といった意味ではなく、それらを超越した根源にあるもので、後には「(太)虚」などと称された概念である。老子は「善」や「信」に「徳」を付すことで、それが「道」と一体となったものであることを示そうとした。この世には確かに「悪」や「嘘(偽)」が存しているが、それは実は「善」から外れた状態(不善)にあるものであり、また「信」から外れた状態(不信)にあるに過ぎないのであって、「善」「信」と対立するものではないのである。そうであるから本質として存しているのは「善」や「信」であると老子は教えているのである。


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