宋常星『太上道徳経講義』(49ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(49ー3)

「善」ということであれば、自分も一般に「善」とされていることを「善」とする。「不善」であれば、一般に「不善」とされているものを自分は「善」とする。これは「徳善」である。

天が与えて、人がそれを受ける。それがそのままに受け取られると「善」となる。内にあっては心や身、外にあっては家や国、あらゆるところにこうした「理」は通じていて、まったく偏りはなく、それはあらゆるところに及んでいる。そうした中に人の「善」がある。自分の「善」はそうした自分を取り巻くあらゆる存在と等しい「善」の中に存している。自分が「善」とするものを、他人は「不善」とする。それは「善」というものがよく分かっていないからである。本来の天の「徳」というものが分かっていないからである。それは物欲によって見えなくなっていることもあろう。そうなれば人のあり方も正しくは見えなくなる。こうしたいろいろな場面での「不善」なるものは、あらゆるところにあるが、本来的には「不善」なるものは存していない。自己にあっては自己の「善」を見つめることで、こうした誤った考えを是正することができる。つまり「不善」と思われていることも、実は「善」なのである。「不善」とされていることも、自分にとってはそれを「善」として受け入れることができる。重要なことは「善」は天の「徳」であるということであり、「不善」とされることも、それが存在している以上は天の「徳」であるから、それは「善」ということになる。つまり天の「徳」で「善」でないものはないのである。それは人においても同様で、あらゆる人は天の「徳」を有している。そして、それを捨てることはできない。そのため聖人が世の人に対する時には、必ず自分も相手も共に「善」なる存在であると考える。それは(古代の聖王である)堯舜と同じである。そうであるから「『善』ということであれば、自分も一般に『善』とされていることを『善』とする。『不善』であれば、一般に『不善』とされているものを自分は『善』とする。これは『徳善』である」というのである。


〈奥義伝開〉この世に存在しているものは「自然」において存在しているのであるから、すべて「善」なるものであるとする。そうであるから、そうした中に「不善」なるものもあると考えるのは誤った考え方であるとする。ここでの「善」というのは「善悪」の「善」ではない。「善悪」は後天・太極においてあるもので、先天・無極ではそうした区別はなく、ただ「善悪」を超越した「善」だけがあるとする。しかし、これでは同じ「善」という語で違う概念を表そうとするので分かりにくい(このことは第一章で「道」や「名」について述べられている)。そこで後には「虚」であるとか「太虚」などと称されるようになった。特に儒教では孔子が人の心の根源に「善」があるとしてしまったので、後の儒者の苦慮するところとなる。どうしても決定的な「性善」が実証できないからである。そこで「虚」や「太虚」に逃げ込むのであるが、そうなると「それは禅宗に影響されている」との批判を受けてしまう。この論争は結局は解決を見ないままとなっている。


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