宋常星『太上道徳経講義』(50ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(50ー6)

それはどうしてか。生きることにあまりにとらわれているからである。

この一文は、これまで述べられたことを更に明らかにしようとするものである。人が正しくない行為をすると、それは「死」へと至ることになる。これは小波(注 小さな欲望)が大波(注 大きな欲望)を招くようなものであり、静かな海面から小波が生じ大波となる。そうした人は大波から小波そして静かな状態に至ることのできる道筋を知らない。例え身は「死」ぬとしても、「死」を速める入口を考えるならば、それは正しくない行為にあるわけで、あえて「死」へと向かおうとしている人は、それが分かっていない。迷い迷って、どうして自分が「死」へと急速に向かっているのかを知ることがないのである。ここで老子は、世の人の心を救おうとしている。「死」へと急速に向かう原因が心にあることは、あらゆる人に関係しているものの、それを知る人は少ないない。そうであるからどうして急速に「死」へと向っているのかが分からないわけである。その問いかけが「それはどうしてか。生きることにあまりにとらわれているからである」ということである。人は肉体を持っている。短い人生という旅路を生きる人は、長生きをしたく思うものである。そして「生」のとらわれからも「死」のとらわれからも脱することのできた境地を求めようとする。そうした「不生」「不死」の境地は個々人の「天性」でもある(注 本来的に有しているもの)。「天性」は増やす必要もないし、減らす必要もない。欠けたところも、足りないところもない。混沌として完全であり、それを悟れば「性」も「命」も正しく働くようになる。生死のとらわれから脱することができるようになる。どのような人が、「生」を貪っているのであろうか。それは「性(注 天性に同じ)」を養うことを知らない人である。功名、富貴にとらわれ、利を求めて、色に迷っている人である。こうした欲望から脱することのできない人は、全て欲望のままに「生」を得ようとして、自分の「生」を害していることを知らないのである。


〈奥義伝開〉三割くらいとイメージされる「生」にとらわれている人、そして同じく三割くらいとイメージされる「死」にとらわれている人、そしてこれも同じく三割くらいとされる若返り、不老不死を求めるような人、これらに共通しているのは「生」への執着であると老子は述べる。「死」へ過度にこだわるのは「死」が怖いからである。その怖さの背後には「生」への執着があることを老子は見抜いている。そして、それは普通のことでもある。さて数字からすれば一割が残ることになるが、これは生地を超越した人ということになろう。過度なこだわりを持たない人である。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)