宋常星『太上道徳経講義』(49ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(49ー6)

人々は皆、耳目によって物事を知ろうとするが、聖人は子供のようである。

この文章からは聖人というものを深く知ることができる。それは人々と渾然一体であるということである。人々は聖人の教えに導かれ、その「性」の「善」に復する。そうなれば心の「信(まこと)」も完全なものとなる。聖人と人々の心とに違いはない。人々の心も「渾然」としたものであり、聖人の心と同様なのである。そうであるから聖人の「善」を見たならば、人々もまた己が「善」に気づくことになる。聖人の「信」を聞いたならば、人々もまた己が「信」を開くことになる。これらはつまりは耳目を通しての啓発である。ただ聖人は視覚や聴覚を通した啓発では、まだ十分ではないのではないかと恐れている。それは自分勝手な解釈をされるのではないかという点である。もちろん本来の「性」は「善」である。本来の心は「信」である。しかし多くの場合はそうなっていない。一方で聖人は「」のようなのである。「子供」とはまさに子供のことで、生まれたままの「性」が保たれているということである。「子供」は愚かであるし、何も理解することができない。善悪も分からず、知恵もない。また耳目を通して何かを知ろうとすることもない。つまりそれは視覚や聴覚が、何かを知る方法として機能していない、ということである。そうなればそうした知見にとらわれることもないわけで、これが聖人のあり方なのである。そうであるので「人々は皆、耳目によって物事を知ろうとするが、聖人は子供のようである」とされている。人々もこうした「子供」のようにとらわれないようでなければならない。そして本来の「性」の素朴さを失わないようにしなければならない。「善」は「善」であるが、「不善」もまた「善」である。「信」は「信」であって、「不信」もまた「信」である。天下とはこうした「渾然」とした状態にあるのである。そうであるから人の心も「渾然」としているのである。


〈奥義伝開〉人の根源的な心の働きを「性」という。これが活動して実際の思いや行いとして現れたのが「心」の働きである。そうであるから「性」そのものは無為であり自然である。しかし、人は年を取るにつれていろいろなことを学習して欲望を持つようになる。そうなれば「性」と「心」は乖離して行く。つまり乳児の時が最も「性」と「心」との乖離が少ないわけで、老子も「嬰児」を道に近い存在として挙げている(第十一章)。そしてそれは「柔」であるという。若芽が柔らかいように、後天の欲望の影響を受けていないものは柔らかいとする。太極拳はそれに復する方法として公案された。


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