宋常星『太上道徳経講義』(50ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(50ー1)

生死とは、性命が我が身に来て去ることである。性命が我が身に来ると「生」となる。それが去れば「死」となる。「性」は陽であり「命」は陰である。これが天にあれば天命となり、これが我が身にあれば性命となる。「性」と「命」は本来的に理においては「一」であり、別のものではない。理をしていうならば「性」と「命」は一つであり、同様に「動」「静」も違ったものではなく一である。天命は本来的には来ることも去ることもないし、生もなければ死もない。しかし個人の性命についていうなら、それには去来がある。生死もある。生死は天に心があって、その意図によって生み出されているのではない。ただ人の気質によってあるに過ぎない。それが天の理である。天の理と気が感応し合って、陰陽の気が相交わる。そうしたところに「生」はある。つまり父母の交わりによって気質を得て人は生まれるのである。理と気は天の命を受けている。理は気の働きであり、それは天の理に合っている。そうした理と気が人に下って、それらが互いに深く関係しているところに生生の働きがある。ここに人が生を受けることになるのである。つまり、死とは天の働きから外れることであり、そうして人は亡くなる。ただこの世の人を見てみると、生を軽んじて死を考えることもない。自暴自棄となって、自分の体を大切にすることもない。自分の気を大切にすることなく、その命を保つこともできていない。自らの神(こころ)を愛することもない。こうした生活をしていれば、天の命の至理はその身に存し続けることはできず、性命の本体も常にこの身に留まることができない。そうなれば「元気」の安定することなく、精神的に消耗してしまう。こうして全く自分で死を選んでいるわけである。本来の真の自己を離れてしまっているのである。そうなればその人は死んだも同然となってしまう。ここで老子は「生死の門戸を出る」ことを指摘している。世の人に求められるのは、俗情から離れて、私欲を忘れることである。これは「出機」「入機」を知ることでもある。そうであれば「生を求めて死に入る」といったこともないし、「生を軽んじて死に赴く」といったこともなくなる。ましてや戦争で命を失うようなこともない。猛獣に襲われることもない。どのような高位にある人でも、護衛をしてくれる人が居なければ、身を守ることはできないと思うかもしれないが、死ぬべき状況になければ、生きることができるのである。天地は永遠であり、自分はそれと同化している。この章で、老子はあまりにも生に執着する人が、自分の欲望のままに生きて、むしろ死に向かうべき状態になってしまうことを述べている。そこに「生を出て死に入る」ことの重要性があることを教えているのである。


〈奥義伝開〉この章で老子は、生きていれば死んではいない、ことを教えている。当然と言えば当然である。人は生きていなければ死んでいる。死んでいなければ生きている。死後の世界や霊界などといった妄想、迷信を老子は必要としない。また、ここでは「生」に執着している人、「死」に執着している人、「アンチエイジング」に執着している人の居ることが述べられ、その根底には「生」へのこだわりがあるとする。普通、人は「死にたくない」と思うものであるから、それは「生」への執着となる。しかし、それだけでは「生」の問題は解決しない。「死」があるからである。どのような楽しさも「死」を一時的に忘れさせてくれるだけである。そこで少しものを考えることのできる人は「死」のことに思いが及ぶ。更に深く考えて行くと、なんとか特別なアンチエイジングの方法があって「死」を免れるのではないか、あるいはかなり先に伸ばすことができるのではないか、と思うようになる。この段階まで来ると「迷路」に入ってしまったといえよう。老子は生きていれば死ぬことは当然であるから、あまりそうしたことに執着しても仕方がないと教えている。


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