宋常星『太上道徳経講義』(50ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(50ー2)

生を出ると、死に入る。 

人の欲望にはそれぞれに関係する感覚器官がある。そしてそれぞれの感覚器官には(見たり、聞いたり、感じたりといった)特色がある。「出る」とは感覚器官のこだわりから抜け出ることであり、「入る」とはそれぞれの感覚器官にとらわれることである。つまり「出る」と「入る」とは、つまりは人の感覚器官のことなのである。感覚器官にとらわれ(入る)、感覚器官から自由になる(出る)。それはまた例えば春分の後には陽が開いて万物が生まれ、秋分の後では霜や雪が降るようになって、万物は死ぬのと同じである。こうした万物の「出入」は、卯酉の門(注 子午は陰と陽で、それが交わるのが卯酉である)にあるのであり、それは天地では開閉の時(日出、日没)で、これが「出入」ということになる。人と物の生滅は、何ら違いのあるものではなく、その本質は天地にある。それは陰陽の動静であり、男女にあっては性情の「出入」である(注 男女の交わりのこと)。また物の生滅も陰陽の動静にあるし、人の生死も同様である。ここで述べられている「出る」とは、情のとらわれから「出る」ことである。「入」は情欲のとらわれに「入る」ことである。「出る」とはつまりは「生」につながるもので、「入」はつまりは「死」につながっている。そうしたことを「生を出ると、死に入る」としている。人がもし本来の天性を完全な状態で維持できたならば、それぞれに真の心を養うことができるであろう。そして情欲を完全に脱することが可能となろう。情欲の外に超然として居られるようになるのである。つまり身の中の万神は、自然にその存在が安定されて、性の中の至理は自然に保たれる。視、聴、言、動は、全て本来的な働きに帰して、命(注 本来の体のあり方)に復することになる。何か物に接しても、心の動くことはなく(致虚)、静を養うことができるようになる。これがつまりは「生を出る」ということなのである。ここにあって自分自身の本質を悟ることになる。我が性命は、そこから生まれているのである。そこに真の心の誠のあるのであり「性」に本質がある。しかし情欲に陥ってしまうと、心は穢れて、性もその静を失うことになる。万物にとらわれて情において欲を去ることができなくなり、あらゆる欲望が噴出してしまう。私欲のままに行動すれば「性」の本来の働きは失われてしまう。人の「性」は関係性によって働くものである。そうであるから人の心は物との関係性によって動いている。そこに生きることの「理」が存していなければ、生もそこには存することができない。これがつまりは「死の門」に入るということである。人の性と命が「死」にとらわれることのなるわけである。しかし聖人の動静は一であり、喜怒が生まれることもなく、性は太虚と一つである。それは全き空であり、心と天地は一体で混沌としている。そこには陰陽は交代することなく、五行が働くこともない。超然として万物のとらわれから抜け出していて、情欲の害を受けることもない。そうであるから大いなる自在であることができる。あらゆるものを受け入れて、輪廻、生地を脱している。


〈奥義伝開〉宋常星はいろいろと面倒な解釈をしているが、要するに老子は、人は生きていなければ死んでいる、と言っているに過ぎない。また死んでいなければ、生きているということもできようが、人または物でも、その存在の形はこうした単純なのであって、霊魂や死後の世界などは考える必要はないわけである。これはこれから述べられることであるが、霊魂や死後の世界の妄想を必要としている人は「生」そして「死」への特別なこだわりのある人である。何事においても過度なこだわりを脱すれば「迷路」に迷うこともないのである。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)