宋常星『太上道徳経講義』(50ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(50ー7)

聞くところによれば、善く生を養っている人は、歩いていても猛獣の害にあうことはない、とされる。

これより以下は「生」を保つことの不可思議な効果について述べられており「無死の境地」の妙義が記される。「死へと向かうことから生へと転じることにこだわる人」は、全く情欲にとらわれているのであり、適切でない行為をしてしまう人で、よく「生」を得ることのない人である。「善く生を得ている人」は心は生まれたままの嬰児のようであり、少しの情欲を持つこともない。「性」は瑠璃のように明浄で、一点の穢れもない。その行為には全く「死」へと通じるものがない。そうであれば「歩いていても猛獣の害にあうことはない」ようになるのである。これはまさに「無死の境地」の不可思議な効果と言えよう。それは獣を遠ざけるような方法を用いるというのではない。呪術によるのでもない。およそ「善く生を得ている人」は、天の理を完璧に実行しているのであり、道徳において欠けるところはなく、常に心は物への執着から脱している。そうであるから根本的に物にとらわれることによる弊害の生ずることはない。つまり天の理を明らかに悟っている人は、獣の害にあうようなことはないのである。そうでなく鬼神に守ってもらおうと考えるような人は、往々にして獣の害にあうようなことが生じてしまう。


〈奥義伝開〉これから述べられる「猛獣」「軍隊」などによる害に関する話は、当時のことわざのような言い伝えであったと思われる。それを老子は正しく(新しく)解釈するわけである。「善く生を養っている」というのは原文では「善く摂生する(善摂生)者」とある。この「摂生(養生)」がどのようなものであったのかは分からないが、何か特別な方法があったのであろう。そしてそれを得たならば不可思議な力で守られると考えられていたようである。しかし、老子は「生」を得た人、つまり「生」きるべき状況にある人は猛獣に害されることはない、とする。猛獣に害された人は「生」きるべき状況になかったからであるというわけである。ただそれだけのことである。神仏の「おかげ」というのも、病気が治る状況にあったから治ったのであり、宝くじが当たる状況にあるから当たったに過ぎないのであって、そこに神仏の力などは働いていないというわけである。


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