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宋常星『太上道徳経講義』(39ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(39ー7) 侯王は「一」を得て、そうして天下を正しく(貞)治める。 「貞」は、河上公は「正」の字が用いられている。「貞」と「正」の意味は同じである。万物は「一」を得ることで生きているのであるが、侯王は民を生きさせているわけであるから、侯王にあっても「一」を得ないのは適切な統治は行い得ないわけである。侯王が「一」を得たならば天下は争いなく正しく治まることであろう。正しい心を自分のものとして、誠意をもってことに対する。つまり「一」を心身に得ているわけである。こうしたことは総て太極の「一」なる理なのである。これを天下に施せば、総ては仁の恩恵の及ぶところとなる。侯王の心が正しければ、あらゆる存在に対する心も正しくあることであろう。つまり侯王の心が「一」であったならば、当然のことに民にも「一」の心で対しているのであるから民の心もまた「一」となる。そうなれば天下は無事に治まるのであり、万民は自然に無為となり、天下が正しく安寧であることを心配することもなくなる。そうであるから「侯王は『一』を得て、そうして天下を正しく(貞)治める」と述べられているのである。 〈奥義伝開〉「侯王」とは各地に任命された王のことである。ここでは天や道によって「任命」された統治者のことをいっている。そうした人物は当然のことであるが「一」を得ている。「一」を得ているので成るべき人が侯王となっているわけである。しかし実際の統治者は覇道による争いに勝ってその地位を手に入れた者たちである。中国では伝説の時代に「侯王」たる聖なる王が居たことになっている。老子が「侯王」にこだわるのは天に北極星があるように、人の社会でも「不動の中心たる人」があるべきと考えていたからと思われる。また歴史上は中国では皇帝が北極星に例えられても来た。そうして聖なる王の登場が常に期待されていたのであるが民国建国の時についにそれが間違った考え方であることが分かり、皇帝は廃止された。世界を見てもそうした動きが近現代には多く見られた。これが歴史的な趨勢というものなのであろう。

宋常星『太上道徳経講義』(39ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(39ー6) 万物は「一」を得ているので存することができている。 谷の空間は「一」を得て満たされる(盈)だけではなく、万物にあっても「一」を得ればよく生きることができる。「万物」とは、いろいろな動きをするものであり、いろうろな色を持っている。生物であり無生物であり、善であり悪であり、邪であり正であり、醜くあり好くもあり、粗くもあり細かくもあり、柔であり剛でもあり、大きくもあり小さくもある。一切の形を持つ存在を総称して「万物」と謂っている。この「万物」はまた雨や露や風、雷として現れることもある。それによって寒さや暑さ、昼や夜が現れる。また人が「一」を得れば酷暑に耐えたり、霜や雪をものともしなかったり、卓越した才能を表したり、品位があったり、長生きをしたり、そして成長に従ってその姿形が変わったりもする。こうしたそれぞれの生存の理は、それぞれが「一」を得ているから働いている。「一」から生まれて「一」を成しているわけである。「一」から生まれるとは、生まれる時機があるということである。「一」と成るというのは、時機によって成長の働きが生まれるということである。つまり生きている上での考えられないような変化の機は、努力することなく自ずから生じるのであり、意図することがなくても自然に働きを持つようになるのである。これらは総て「一」を得ることでなされる。そうであるから「万物は『一』を得ているので存することができている」とあるのである。 〈奥義伝開〉あらゆる存在は「調和的統一」である「一」を得ているので安定的な運動をして適宜、変化もしている。それが崩れると、どこかに破綻が生まれることになる。また破綻が生ずることで崩れた調和はまた再び調和状態へと戻ることができる。

宋常星『太上道徳経講義』(39ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(39ー5) 谷は「一」を得ているので盈(み)ちている。  神が「一」を得て不可思議な働き(霊)をするだけではなく、谷の空間においてもそこに「一」が得られたならば、生命力(気)が満ちることになる。谷の空間は虚であり、そこには「一」がある。これはどこの谷という特定の谷を言っているのではない。例えば人には「人の谷」がある。物には「物の谷」がある。山には「山の谷」がある。川には「川の谷」がある。天には「天の谷」がある。地には「地の谷」がある。天地にもし「谷」が無かったならば、そこに運動の働く余地がなくなってしまい、変化も生まれない。人や物に「谷」がなくなってしまったら、性命(心と体の根本)の根の存するところがなくなる。山や川に「谷」がなければ、風(吐納の気)の吹くところがなくなってしまう。そうであるから天は「谷」があることで、その空間において働きをしている。地は「谷」があることで昇降、陰陽の働きをし得ている。人も「谷(丹田)」があることで神(心のエネルギー)や気(体のエネルギー)を変化させている。物は「谷」(という空間)があることであるべきところに存することができている。山も「谷」(という空間)があることで水を流すことができている。川も(水が流れている)「谷」があることであらゆるものを受け入れることができている。天において「谷」の働きが充分でなければ、天の働きは円滑になされることはない。地の「谷」の働きが充分でなければ、地の働きも適切には行われない。人に「谷」の働きがk充分でがなければ、神や気の変化も促されることはない。物に「谷」の働きが充分でなければ、物はあるべきところに存することはできない。山に「谷」の働きが充分でなければ、その水を適切に流すことはできず、川に「谷」の働きが充分でなければ、その流れも止まってしまう。つまり、これらの基となっているのは「谷」つまり「虚」なのである。それが満たされるというのは「一」に依る。「一」を得れば、谷神も死ぬことはない。それはそこに気が満ちているからである。例えばここで述べられている「谷」は、第六章の「谷神は死なない。これを玄牝という。玄牝の門は、これを天地の根と称す」とある、そのことなのである。そうであるから「谷は『一』を得ているので盈(み)ちている」とされている。 〈奥義伝開〉老子は「谷」のように「窪ん

道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(4)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(4) 龍形八卦掌の形意拳的な影響は単換掌でも見ることができる。孫家八卦掌などでは換掌式の時に体の横に回っている方向とは反対に腕を伸ばして転身をするのであるが、龍形では体の前に出す。これは形意拳の基本の構えと同じである。双換掌で半馬歩になるのもこうした形意拳の基本の構えを重視しているからに他ならない。こうした構えから片足をあげると、まさに形意拳の十二形拳、龍形拳に近いものとなるのであり、龍形八卦掌は原理的には龍形拳の変化とすることも可能なのである。それは形意拳において三才を統合するのが「龍身」であることに由来している。「龍身」は全身を三つのパートに分ける。、それは「天、人、地」であり、「頭、胴、足」である。つまり「龍形」八卦掌の「龍形」とは形意拳の三才を統合する原理のことであって、その意味では形意拳も「龍形」形意拳とすることができるわけである。形意拳を「龍形」と言わないのは、それが当然であるからで、八卦掌でそれを冠するのは八卦掌の術理、世界観が本来的には三才やそれを反映しての「龍形」にないからである。ちなみに八卦拳でいう「龍」はネイ勁(ネジリの動き)をいうものであり、「直」を基本とする形意拳ではそうした動きはごく希薄である(形意拳では応用、奥義として滾勁が八卦掌を取り入れることで、より深く研究された)。

道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(3)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(3) 龍形八卦掌の三つの換掌式は既に触れたように、三才の世界観を反映したものである。つまり単換掌は「人」で中段の変化であり、双換掌は「地」で下段、上下換掌は「天」で上段の変化となる。双換掌は転身をして半馬歩となるが、一部に半馬歩をかなり低く仆歩に近い形で行う人も居る。それはこれが「地」に属するものであることを反映してのことである。また上下換掌は仆歩をとるが、これは下から上への勢いを出すために他ならないのであって、双換掌で使われる仆歩とは意味合いが異なっている。通常、双換掌で半馬歩が用いられるのは、上への勢いを出さないためでもある。このように龍形八卦掌は完全に八卦ではなく形意拳の三才の術理、世界観によって技を構成していることが分かる。ちなみに形意拳では三体式の動きで下丹田、中丹田、上丹田(起)、上丹田、中丹田、下丹田(落)と「起落」の動きによって周天をさせることで三才の統合を行っている。

道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(2)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(2) 本来の八卦拳や八卦掌では原理的に換掌式は単換と双換の二つしかないのであるが、これが龍形八卦掌で三つになっているのは、形意拳の三才式の影響による。三才とは「天、人、地」で、古代の宇宙観を示すものである。形意拳では「頭、胴、足」を「天、人、地」としてその統合を重視する。三才の統合を行うひとつの形が三体式である。原理的にはあらゆる形意拳の動きは総て三体式ということになる。今日、多くの形意拳で「三体式」といえば劈拳かそれに似た動きをいうが、それはその動きが形意拳の根本原理を最も的確に示しているからに他ならない。厳密に言えばただ立っているだけの三才式(混元トウ)から形意拳の基本の動きである「起落翻賛」を含む三体式があり、そこから五行拳の第一である劈拳が生まれたわけである(劈拳の名称は第一を意味する「劈頭」から来たとも言われている)。この三才の世界観は形意拳の根本である。

道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(1)

  道徳武芸研究 龍形八卦掌における換掌式と「三才式」(1) 龍形八卦掌には換掌式が三つある。通常の八卦掌では換掌式は単換掌と双換掌の二つなのであるが、それに上下換掌が加えられている。一般的に上下換掌は指天打地と称されるもので、これは程派の八卦掌ではよく見られるが、指天打地を換掌式と見なす派は他には無いようである。本来、換掌式は八卦拳でも単換掌式と双子換掌式の二つだけで、共に入身の方法をいう。八極拳の劉雲樵は八卦掌の特色を「挿掌」にあるとしていたが、これは日本の武術で言うなら入身のことである。単換掌(式)では相手の構えを崩して、その隙に入身をする。双換掌(式)では始めのアクションで崩しが充分でなかった場合に、もう一方の手で更に崩しを仕掛けて隙を作ろうとする。因みに八卦拳では、こうした「原理」を言う場合には単換掌式のように「式」を付けて、実際の動作(掌)とは区別している。そうであるから単換掌式を用いる単換掌はいくつもの形があることになる。

宋常星『太上道徳経講義』(39ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(39ー4) 神は「一」を得て不可思議な働き(霊)をするようになり、 天地が「一」を得て関係性が明らかとなり寧(やす)らかとなるだけではない。天地があれば、そこには必ず天地の神が居る。「神」とは天地の「徳」のことである。それは天と地の間に満ちており、その変化は窮まることがない。そうしたことは総て「神」の不可思議な働きと言えよう。こうした「神」が凝縮されたならば「元始の祖気」となる。これが散じれば上、下それぞれの「神(天の神、地の神)」となるのである。「元始の祖気」は、静であり「一」であるが、散じれば万となる。天地の神々が、もし「一」を得ることが無ければ不可思議な働きを表すことはない。千変万化することも不可能である。つまり神には「先天の神」と「後天の神」が居り、虚無自然である。清浄で無為の神も人は感じることができる。それは形を有し、思いイメージすることもできる神である。物質に近いレベルの神も居れば、霊的な高い境地の神も居る。修行を積んだ神は、人から生まれては居ない。天地の気によって生まれている。また陰神、陽神も居て、邪神や正神も居る。さらには生贄を求める先祖の神や英雄豪傑が神となったものも居る。先天の神とは、天地が開けた後に、先天の気の感応によって生まれた神で、永遠に存している。不壊不滅である。そうした神を先天の神という。後天の神は、天地が開けた後に生まれたもので、後天の気が集まって成っている。人と感応することもある。こうした神が後天の神である。虚無自然、清浄無為の神は、例えばこの世を超越したところに居る神で、こうした神を自然清浄無為の神ともいう。後天の神は、欲界に男女の形を有していて、こうした神が有形の神とされる。色界(物質のレベル)では物質的な思いが積み重なっているので、これを受色の神という。無色界(物質を超越したレベル)は空なる世界で物的なものは超越しているが、僅かに思いが残っている。こうした神を受識の神という。低いレベルから高いレベルへ、長い修行を積んだ神は、例えば東方聖帝が居る。東方聖帝は西ル無量玉国で長く修行をして、更には洞明玉国でも長い修行を積んだ。何万回も生まれ死んで、その数は計り知ることはできない。功徳は天に届く程であり、元始天尊は蒼帝の号を与えた。これを積刧修證の神という。母胎から生まれることなく先天の気によって生まれた

宋常星『太上道徳経講義』(39ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(39ー3) 天は「一」を得て関係性が明らかとなり(清)、地は「一」を得て寧(やす)らかとなり、 清気は上昇して天となると謂われている。濁気は下降して地となると謂われている。天地が「一」の妙を得るということに就いては「皇極経世経」を見るべきであろう。それには「天は一をして四に変化をする」とある。「四」とは太陰、少陰、太陽、少陽である。「一」が「四」に変化するということからは天の数とされる「五」が得られる(一と四とで)。こうした天の「五」におけるは「四」が具体的な形を持つものであるが「一」はそうではない。具体的な形を持つことのない「一」よって「四」は統括されている。そうであるから天の根源は「一」にあることになる。およそ天において見ることのできるのは、日月星辰であり、風雲雷雨、春夏秋冬、晦朔弦望(月の始めと終わり、半月と満月)の「四」である。昼夜の長い短い、暦の二十八宿の変化、これらは総て天において行われており、それは明確で一定している。それは、これらが総て「一」によっているからである。そうであるから「天は『一』を得て関係性が明らかとなり(清)」とあるのである。地の数もまた「一」と「四」である。「四」とは太剛太柔、少剛少柔である。「一」が「四」に変化しているのであるから、地においても「五」を得ることができる。「四」は具体的な形のあるもので、「一」はそうではない。具体的な形を持たない「一」は、これら「四」を統括している。そうであるから地の根源は「一」ということになる。およそ地の形は、山は固まっており、河海は流れている。草木は成長して、人は生きている。水火土石、万物は造化の中にあり、これらの秩序は改められることはない。それは地が「一」を得ているからに他ならない。そうであるから「地は『一』を得て寧(やす)らかとなる」とある。細かに地の「四」を見てみれば、太陽(日)は至陽の極みであり、太陰(月)は至陰の極みである。少陽はつまりは太陽の一部で、太陽のあるところでは少陽を見ることもできる。少陰も太陰の一部から派生したもので、これを辰の刻の気などと(限定した特定のものとして)理解してはならない。天を成しているのは「四」である。ただ「四」の形のみを天に見ることができる。これらの変化にしても、この「四」から外れることはない。例えば太陽は「日」である。太陰は「月

宋常星『太上道徳経講義』(39ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(39ー2) 昔に「一」を得ていたものとしては、 「昔」とは始めということである。天地、万物の始めである。「道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」(第四十二章)とあるが、つまり「一」は道から生まれているのである。つまり、無極(道)が先にあって、それから太極(一)が生まれたということで、「一は二を生み」は、つまりは太極(一)から両儀(二)に分かれたことを意味している。「二は三を生み」は、両儀(二)が生まれて、次に三才(三)が生じることである。「三は万物を生む」は、三才(天、人、地)があれば万物の存在は完全なものとなるということである。こうしたことからすれば「道」は「一」の母であり、「一」は「道」の子ということは明らかであろう。「昔に『一』を得ていたものとしては」とある、この「一」を得るとは究極の「理」を得ることなのである。総てはそこから始まるわけで、「一」を得るは、究極の正しい気が開かれなければならない。また「一」を得るとは、始めの数を得ることであり、万物の起こりを知ることでもある。この文章を読んだ人は、これを軽く考えてはならない。よくよく細部まで探究をしなければ「一」を得ることはできないであろう。つまり「一」とは自然が自然にそうなるということであって、他の意味があるわけではないのである。 〈奥義伝開〉あらゆるシステムの根本には「調和」と「統一」が保たれているというのが老子の考えである。この世はいろいろなシステムによって成り立っている。そしてそれぞれに合理的な法則(道)があり統一的な運動をしている。これが「一」という概念である。植芝盛平は戦後は、合気道は心身統一の道である、と言っていた。この状態にあって「心」と「身」は「一」つになっている。「心」と「身」の働きが区別されることがない。老子はこのような統一状態が人の本来的なあり方であると教えているわけである。またこうした考え方は後には「性命双修」として内丹の修行では特に重視された。こうした状態は「人」というシステム以外にもあらゆる自然界のシステムにおいて働いていると老子は考えるわけである。「昔」とあるのはこの世の発生時からということである。「一」は森羅万象の成り立ちから存する普遍的な真理であるということである。

道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(4)

  道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(4) 中国武術でも時代を経るに従って「文化遺産」としての形が増えて来る。そこで複雑化の問題を解決するためにダイジェストが考案される。それが摘用拳である。また砲捶もある意味では多くの基本技を統合するものではあるが、砲捶はより高度な動きや複雑化した動きを学ぶためのものであって、「無名の樸」という視点からすれば、それは「道」への還元とは別な方向にあると言わねばなるまい。「道」への還元としては、太極拳で言えば鄭慢青が作った簡易式(鄭子太極拳)が最も成功している例であろう。これは鄭慢青が太極拳の原理によって、それに外れる技を省略することで張三豊の作った「太極拳」を再現させようとした試みであった。他にも太極拳には「簡易」とされるものもあるが、二十四式(簡化)は李天驥が形意拳をよくしたこともあって形意拳の動きの風格が強く、太極拳本来の「原理」とは必ずしも一致していないところがある。このようにイノベーションを起こすものとしての「無名の樸」への還元は容易ではない。しかし中国では何時の時代でも果敢に挑戦されて来ている。因みに日本では古いものも捨てないで増やして行く傾向がある。そのため古武道諸派では技の数が多くなり過ぎて却って個々の技のレベルが挙げられない結果になっている。

道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(3)

  道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(3) 中国に入って来た仏教は密教の「壁」を「無名の樸」なるものへと還元させることで乗り越えようとした。それが禅宗である。本来、瞑想・定である禅は釈迦の時代から修行の根本をなすものであった。それに立ち返ろうというのであるが、単純にそれに戻っても悟りは得られないことは分かっている。そこで釈迦の時代の「禅」とされているものは違う、という立場を取る。ただ、単純にそうとは言えないので、釈迦の教えた「禅」は、上座部(小乗)で誤解されているとして、禅宗の「禅」が本来の「禅」であることを強調する。こうしたために禅宗の論理はしばしば破綻を来すことになる。そこをなんとか理解しようとするとするので「難解」と評されることにもなる。禅宗でも「道」への還元は目途とされたのであるが、実際はそうではなかったので大きな矛盾が生じてしまう。このように「無名の樸」の問題は、それが「道=原理」への還元を越えてしまうと過去の文化遺産を継承できなくなるところにある。余計なものを捨ててイノベーションができれば良いのであるが、捨て過ぎるとイノベーションが出来なくなって、かえって破綻に陥ることになるのである。

道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(2)

  道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(2) 「道=原理」への還元への傾向は中国仏教においても見ることができる。釈迦の没後しばらく経つと、釈迦の示した方法では、どうしても「苦」からの完全なる脱却ができないらしいことが分かって来た。そこで、それをより厳密に行うことで、可能性に賭けたのが上座部(小乗)仏教である。しかし、それでも悟りは得られない。こうした中に釈迦の教えは間違いであったと気づいた人は仏教を捨ててしまったのであろうが、どうしても悟りの可能性にすがろうとする人は、悟りを遥かの後に期待して当面はそのための善行を行おうとすることにした。これが菩薩道の発見である。しかし、そうした中でも、やはり現世での悟りへの可能性を求める人たちが居て、バラモン教の護摩などの修法に頼ることを考えた。それが密教である。仏教は本来は反バラモンの立場から出発したのであるが余程、困ったのであろう、密教になるとその禁断の「壁」をも破ってしまう。これで「即身成仏」が可能となるはずであったが、やはりそうは成らない。ここに仏教はインドでの命脈を閉じることになる。

道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(1)

  道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(1) 老子は第三十六章で「無名の樸」について触れている。「樸」とは価値や意義を付与される前の存在そのまま、あるがままのものということである。こうしたことを尊ぶ風潮は老子だけではなく中国文化の伝統というべきものである。この「無名の樸」には「名」は無いが、可能性としてはあらゆる「名」を持つことが考えられる。「木」は何の加工もされていないが、あらゆる加工の可能性を残している。つまり「無名の樸」とは、老子の「道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」(第四十二章)と同じで、この場合の「道」が「無名の樸」にあたるわけである。つまり「道=原理」から、万物が派生しているのであり、また万物は「原理」へと還元できるという思想である。武術の世界では限られた練習時間で最大の効果をあげるために、常に「一」あるいは「道」への還元が模索された。形意拳では特にその傾向が顕著なのであるが、その流れを受けた意拳では結果としてシステム構築を失敗してしまう。それは「道」への還元に留まらなかったためである。単純化はあくまで「道=原理」への還元まででなければならず、それを越えた時にシステム自体の破綻を招いてしまう。

宋常星『太上道徳経講義』(39ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(39ー1) 「理」の始めは「一」とされている。数の始めも「一」である。そうであるから「一」は大いなる道の本体とされる。「理」の究極(至理)が実際に現れたのが「一」である。また天地の奥深い根源も「一」である。万物の始まりも「一」である。あらゆる存在であって「一」でないものはない。「一」なる究極の「理」は存在はしているが限定されるものではない。陰陽の変化によって表され、鬼神が告げる吉凶によって示されるのも「一」でないものはない。「一」がなければ数というものは成り立たない。人がもし「一」を得ることができたならば、こだわりがなくなって(虚静恬淡)、何らの偏見もなく、道は我が身であり、我が身は道であると知り、有為の振る舞いはなくなる。およそ「一」による行為で不適切なものは存しない。この章で老子は「一」ということの大切さを述べている。これが人が人として立つ要であるとしているわけである。示されている天や地、神や谷、万物、侯王は総てそうしたことを述べるための例えである。そのところをよく理解しておかなければならない。 〈奥義伝開〉老子の言う「一」とは「調和のとれたシステム」のことであり、老子は天、地、人、物(人が作った物)のそれぞれにシステムがあって、それらを統括する全体(道)も調和が保たれており、また個々にあっても調和、協調しているので、円滑に全宇宙は運動し得ていると考えたいた。この中でそうしたシステムの乱れを起こす危険があるのは人であることは言うまでもなかろう。人において協調関係を保つべきなのは全宇宙に普遍的に通じている真の「理」であるからであるとしている。それは当然、人においても実践されなければならないというのが老子の教えなのである。

宋常星『太上道徳経講義』(38ー12)

  宋常星『太上道徳経講義』(38ー12) つまりそれ(不安定や虚飾)を排して、これ(安定や着実)を取るということである。 「それ」とは不安定や虚飾のことである。そして実際に行うべきは「これ」である安定や着実となる。正しい人でも、世の中が衰え、道が行われないようになれば、不安定や虚飾から逃れることができなくなってしまう。そこではあえて「安定」や「着実」なことが実践されるべきなのである。知るべきは、正しい人は語ることはなくても天地の造化の働きそのままに行動しているのであり、宇宙の本質をそのままの行為をしているということである。そうしたことが「つまりそれ(不安定や虚飾)を排して、これ(安定や着実)を取るということである」なのである。 〈奥義伝開〉これも格言である。「それを排して、これを取る」は「二兎を追う者は一兎をも得ず」といったところか。それを老子は非合理的なものを排して、合理的なものを取るべきと理解する。神仏のお告げであるとか、占いに出ているとか、古くからの慣習であるとか、といったことに何の考えもなく同調するのではなく、よく合理的に考えて行動することが大切であると教えている。

宋常星『太上道徳経講義』(38ー11)

  宋常星『太上道徳経講義』(38ー11) つまり正しい人は安定した境地にあるのであり、不安的なところに立つことはない。着実なところにあって虚飾を好しとしない。 ここで述べられていることは、これまでの教えのまとめというべきことである。正しい人が道を見る時には欲望を交えることはない。理を中心に動くのであり、自分を中心に動くことはない。この世に立つのは道によっていて、迷うことがない。見るもの、聞くもの、言うこと、行うこと、ことごとく道によっている。そこには人の本来の心の働きである「性」の偏りのなさ(中)が、家庭のレベルでも、国家のレベルでも、世界のレベルで見られるが、それは道の徳の働きである。そうであるから道が安的的に行われていれば分安定であるところは存しないことになる。道が着実に行われていれば虚飾は見当たらないことになる。それはまさにこの社会を純朴な状態に戻そうとするものでもあろう。太古の状態に返そうとするものでもあるわけである。そうであるから「つまり正しい人は安定した境地にあるのであり、不安的なところに立つことはない。着実なところにあって虚飾を好しとしない」としているのである。 〈奥義伝開〉老子は最後にまた当時の格言を持ってきているようである。ここでの最後の一節と次の一節は表現としては唐突で言葉が足りない感じを受ける。それは格言が挿入されているからであろう。ここでの格言部分は「着実なところにあって虚飾を好しとしない」である。これは格言としては「急がば回れ」の類で、手軽に利益を得ようとするよりは確実な方法を取った方が結局は良いという教えであったのであろう。それを老子は合理的な行動によるべきで、不合理な行動は結局は良い結果をもたらさないという教えとして解釈しているわけである。

道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(8)

  道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(8) 晩年の植芝盛平は合気道の形を「気形」として武術的なフィールドから離脱させようとしていた。そして更には「神楽舞(かぐらまい)」として「言霊(ことだま)の舞」をも作ろうと岩間では模索をしていたのであるが、東京の道場では専ら武術としての合気道が求められ、結局は隠棲した岩間での気ままな探究が合気道に活かされることはなかった。これは嘉納治五郎も同様で五の形や古式の形はセレモニーとして演武されるだけで、そこに柔道の真髄を求めようとする機運は全く見られない。合気の稽古は「相手との一体感」を技を受ける方も行う方も保持し続けなければならないという「条件」があり、これが実戦とは大きく異なるために常に誤った稽古に陥る危険性がある。しかし、これらを正しく理解して稽古をするならば日本人が古代から千数百年をかけて研鑽を続けた武術の遺産を受け継ぐことが可能となる。「合気」は「柔」の伝統の中にいろいろなカタチをもって存していることも考えられるべきであろう。

道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(7)

  道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(7) およそ「合気」の感覚とは相手との一体感にある。それを植芝盛平は「むすび」であるとか「引力」であるとかとして表現している。この「相手との一体感」が構築され得た時にそれをそのままに技を行うのが「合気」の技ということになる。ただこの「相手との一体感」は容易に破ることができる。武術的に言えば「相手との一体感」は、習熟すればどのような相手でも触れた時に一時的に得ることは可能である。そして体勢の崩れを誘うのであり、それに続いて技を掛ける。こうした「合気」が技法化される前には「当身」によって相手の意識を撹乱して一瞬のスキを作ろうとしていた。大東流で柔術として展開しようとしていた当初の「合気」はそうした柔術に付け加えて相手の崩れを誘う程度のものであったと思われる。

道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(6)

  道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(6) 近代に「合気」が大東流によって世に出るまで、「合気」つまり「柔」を全面的に表に出した徒手武術はなかった。ただ「柔」の伝統は古くは聖徳太子の十七条憲法に「やわらかき(和)」をして争いを止めることが求められていることを見ても、古代より日本人の文化の中でそうしたものが涵養されて来たことは樹分に伺える。これは近世になって「相抜(あいぬけ)」として提示される。針ヶ谷夕雲(無住心剣)は、絶対的な境地に到達した者が立ち会えば攻防は生まれず、互いにすれ違うだけで試合は終わる、と考えた。しかし、それは現実とはならず「相抜」は剣術の中において忘れ去られてしまう。近世において「合気」は「相気」と書かれることが多かったことからして、「相抜」は「合抜」とすることが出来るのではなかろうか。つまり「相抜」は「合(気)抜」であったのである。

道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(5)

  道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(5) 五の形により講道館でも「柔(やわら)」の技、「合気」のあることは提示されるのであるが、五の形と柔道の技との乖離は大きく、それを埋めることはできなかった。嘉納治五郎は理想、理念としての「柔」と柔道技法の間を埋めるものとして合気道の可能性をも模索している。こうした動きの中で合気道の技は講道館護身術としてひとつの結実を見るが、それは必ずしも「柔」を重視するものとはならなかった。つまり相手を掴んだ状態を基本とする柔道技法に対して離れた状態での攻防を想定したものに留まることになったのである。ただ三船久蔵は合気道を見て隅落(空気投)を編み出したとされるから、やはり一部には合気道を通して「柔」の技の可能性を探るといった側面もあったことが分かる。そうであるならどうして「柔」つまり「合気」と柔道技法の融合は充分に為されることがなかったのか。これは大東流でも「合気と柔術は別のもの」とする基本的な考え方がある。

宋常星『太上道徳経講義』(38ー10)

  宋常星『太上道徳経講義』(38ー10) 予言(前識)は道から受けた優れたもののように思われているが、実はそこから愚かなることが始まるのである。 「識」とは、知るということであり、他人の知らないことを知っているということであって、そうしたことが分かるのが「予言(前識)」である。多くのことを知れば知るほど、情報過多となる。そうなると次第に物事の本質からは遠くなってしまう。こうした「予言」といったものも道とは全く別にあるのではないが、道の本質からは逸脱している。道の本質にあっては見せかけではなく、確実であることを重視する。およそ何でも知っている等というのは、何も知らないのと同じである。何か他の人が知らない隠されたことを知ろうとすると、いい加減な妄想にとらわれることになる。日々、自分勝手な思い込み(有為)により、日々道から外れて行くことになる。これは極めて愚かなことである。そうであるから「予言(前識)は道から受けた優れたもののように思われているが、実はそこから愚かなることが始まるのである」とされているのである。 〈奥義伝開〉「前識」については韓非子でも触れられている。韓非子は「前識」について事が生じる前に知ることのできるものであり、理屈では分からないものとしている。そして現実とは「無縁」のもので「妄意」であるとする。道は合理的な倫理観の上にある。それは、お告げのような盲信や迷信とは全く関係のないものである。人はなんとかしてこれから起こることを知ろうとして来たが、それが不可能であることは歴史が証明している。ただ自己の欲望にとらわれている人は、自分だけの奇跡にすがろうとする。

宋常星『太上道徳経講義』(38ー9)

  宋常星『太上道徳経講義』(38ー9) つまり礼が言われるのは、忠や信が薄くなったからであり、ここから世の乱れが始まることになる。 ここも道、徳、仁、義のことが述べられている。次第にそうしたものが失われて礼に行き着くわけであるが、そうなれば世の中が乱れないということはない。実際に道が見失われたならば、そこでは徳が行われるようになる。徳が見られなくなれば、仁が行われるようになる。仁も顧みられなくなれば、義が行われるようになる。義も為されなくなれば、礼が行われるなる。更にもし礼も顧みられることがなくなれば、必ず世の中は乱れてしまうことであろう。そうであるから昔より聖人は、礼は人の本来の心のあり方によるのであり、人の邪な考えやかってな思い込みには、礼をもって正されるべきとしていたのである。しかし、それは余りにやり過ぎてはならないし、また足りないのも良くはない。礼を行おうとすると、必ずいろいろな規則を作ることになる。そうなれば必ず多くの作為が行われる。結果として形式が重んじられて真の忠実さや信用は希薄になる。そうなれば、礼ではなく(より強制力を持つ)刑罰が必要となる。また軍隊も無ければならなくなる。そうであるから「つまり礼が言われるのは、忠や信が薄くなったからであり、ここから世の乱れが始まることになる」とされているのである。 〈奥義伝開〉人が人である最後のラインである礼も失われてしまうと、人々は欲望のままに行動するようになる。老子は礼が失われることの具体的な説明として「忠」や「信」が失われたことをあげている。老子の生きた時代、都市や国の拡大して行く時代背景を考えると、それが社会の拡大に起因するものであることが分かる。古代の小さなエリアの社会は交通や通信、流通などの発達により拡大して行った。それは「知らない人」との交流がより広範囲で始まることを意味していた。そうなると個々人の信頼関係は希薄にならざるを得ない。こうした社会において最後の砦となるのが「礼」なのである。老子は礼が必要とされる社会を予想していたということができるであろう。ただ、それは道と一致したものでなければならない。つまり合理性を持ったもの、多様な価値観を許容できる行動パターンでなければならないわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(38ー8)

  宋常星『太上道徳経講義』(38ー8) つまり道が失われたら徳が現れて来るのであり、徳が失われたら仁が現れて来る。仁が失われたら義が現れて来る。義が失われたら礼が現れて来る。 この一文は、これまでに述べられていたことと同じである。そこでは本当の徳(上徳)、偽りの徳(下徳)、本当の仁(上仁)、本当の道理(上義)、本当の礼儀(上礼)の五段階による民の教導の道が示されていた。これらは総て民が、無為の道に反して有為を行うために行われなければならなくなったものである。民はそうした行為を意図して行うこともあれば、大した考えもなくやっていることもあるであろう。しかし、そうなると世の中はますます混沌としたものとなる。人の心も世の乱れにつれて、道を見失うことになる。徳が失われ、そうなると仁も失われる。仁が失われると義が失われる。義が失われれば、礼も失われる。こうして世の人の心から徳や仁、義、礼が忘れられて行くのである。そうなればあるべき統治を行うこともできなくなり、世は乱れてどうすることもできない。ここで言われている「つまり道が失われたら徳が現れて来るのであり、徳が失われたら仁が現れて来る。仁が失われたら義が現れて来る。義が失われたら礼が現れて来る」とはこのような意味なのである。 〈奥義伝開〉ここで注目すべきは関係性である。原文では「失と後」とで道と徳、徳と仁、仁と義、義と礼が関係付けられている。それは道が失われたなら徳が遅れて現れてくるという言い方である(「後」は「おくれて」と読む)。これは「代わって」と理解すべきではない。つまり道が失われて、それに代わって徳が現れたとするのではなく、道が行われて居た時には当然、徳も実行されていた。しかし、根本である道が失われると、人々はそれに近い徳を重要と思うようになるのであり、真に重要な道にまで思いが及ばなくなるわけである。イメージとしては山の頂上が次第に削れられて行くような感じであろうか。そして最後に残るのは人が人である最後のラインである礼となる。これが失われてしまうともはや人としてのアイデンティティを保つことができなくなる。

道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(4)

  道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(4) 五の形は合気道でいうなら三本目の螺旋で巻き込む技は、タカミムスビ、カミムスビの「むすび」の働きを示すものと言える。二本目も同じく「むすび」を使っているが、これは勝速日つまり「引力」の働きが顕著である。このように五の形には合気道の根本的な動きが既に示されている。こうしたことの延長線上に五本目の間合いだけを使って触れないで倒す技も出て来ているわけである。こうした「技」は植芝盛平も明確には示していない(最晩年に一部演じていたようである)が、今日の「合気」ではよく見るようになった。嘉納治五郎はそうしたところまで「柔」の延長線上にあるものとして予想していたのである。柔道において五の形を実際の試合などに応用しようと考える人は居ないと思うが、こうした「合気」の技は柔道では西郷四郎の山嵐や三船久蔵の隅落(空気投)として実戦技法として考案がなされたこともあったが、今日ではそこに含まれている「合気」「柔」の技のあることは忘れられ、いずれも「名人技」として一般的に有効な技であると認められてはいないようである。

道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(3)

  道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(3) 合気は日本の「柔(やわら)」の展開の最後の形として出てきたものである。嘉納治五郎もそれを感じていたようで、弟子を植芝盛平のところに送って技を研究しようとしていた。またここで取り上げている五の形もそうした嘉納の「柔」研究の中に位置付けることのできるものである。さらに言うならこうした「合気」は「儀式」的な形としてしか練習することができないのではないかと考えていた可能性のある。これを実戦技として練習することの危険性を嘉納は考えていたのかもしれない。五の形の一本目は相手の胸を押すだけで倒すもので、これは完全に合気の技である。二本目は相手が押してくる勢いに合わせて投げている。三本目は螺旋の動きの勢いに相手を巻き込んで投げる。四本目は一本目と同じで胸に触れて押す形であるが、一本目が前進するのに対して四本目は後退しながらなので、これは表と裏とすることもできよう。そして五本目はすれ違いざまに触れることなく相手を投げている。これはおそらく現在、見ることのできる「柔」の最も純粋な形と言えよう。

道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(2)

  道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(2) 合気は大東流が徒手武術として展開して行く中で発達したもので、もとは御信用の手という抜刀術に付随する簡単な逆手術であったものが近代以降、大東流が「柔術」として修行されるようになると、おおいに発展して行くこととなったのである。合気が相手の反応を誘うことでその体勢を崩す技法であるとするなら、それを拡大すれば関節の逆を取らなくても相手に触れて反応を引き出すことのみで体勢を崩すことができるのではないかと考えられるようになったのである。こうした発想が容易に「技」として結実して行ったのは、大東流が形稽古をのみ行うものであったことが原因していよう。合気を実現させるには、受け手の「条件」が整っていなければならない。一定の状態を保ち続けなければならないのである。相手からの第一のアプローチ(押すなど)をそのままに受けて次のアプローチを受け入れる。そうでなければ、合気のようなデリケートな技は成り立たない。普通であれば第一のアプローチから第二のアプローチの間にある程度、体勢を立て直したりの変化は当然、発生するのであるのであるが、それをあえてしないようにしなければ合気は成り立たないのである。このあたりの「条件」付けが武術の技として許容される範囲かどうかについては疑問視されることも少なくない。

道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(1)

  道徳武芸研究 合気のカタチとしての柔道、五つの形(1) 柔道には古武道の形を保存継承するとされる古式の形と五の形がある。古式の形は起倒流から編まれたものであることから五の形は柔道成立の基になったもうひとつの流派である天神真楊流に由来するとされる。ただこれについては判然としない。しかし、この形が「柔(やわら)」のある種の「到達点」といえるものであり、少なくとも嘉納治五郎はそうした発想のもとに五の形を考案したのではないかと思われる。またこれははたして五つで完結しているのか、また他な形も考えられる可能性があったのかなど、形の名称が無いことも含めて謎は多い。ただ今日、五の形を見ると、これが「合気」の動きそのものであることが分かる。

宋常星『太上道徳経講義』(38ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(38ー7) 本当の礼儀(上礼)を実践して、それに応じることがなければ、強いてもそれを行うべきである。 「義」による決然たる行為は、決して軽々に為されるべきではない。これには礼儀を説く一文が添えられなければなるまい。聖なる君主が、人々の心が正しくなく、世に多くの不正が行われているとして、規則を設けて人々の邪な心を正そうとする。外的な事柄をして人々の心の変化を促そうというわけであり、人々を外的な枠組みの中に入れてしまおうとするのが礼儀である。これらはすべて本当の礼儀によって為されなければならない。こうした場合、人々は見ることもできないし、聞くこともできず、愚かで、考えることもできないものとして扱われることになる。見てもそれを理解することができないし、聞いても何も分からない。礼儀を守らなくても、命令を無視しても、どうとも思わない。そうした民であっても聖なる君主は、それを救おうとする気持ちを捨てることはない。民を愛する気持ちは変わることがないのである。それで、どうすることもできなければ「強いてもそれを行うべきである」ということになる。要するに民に礼儀を強いるわけである。それが「強いてもそれを行うべきである」ということで、これは道、徳、仁、義が、日を経て時を移して廃れていっているからで、民の心は荒廃して、天の理は明らかにされず、それを人々は知ることもないからである。知ることがなければ「強いてもそれを行うべきである」ということになるのであり、ここには聖人が世の人を救おうとする心の強さを見るべきであろう。 〈奥義伝開〉ここで「強いてもそれを行うべきである」と訳したところは「攘臂(じょうひ)してこれによる」とある。「攘臂」とは「腕まくりをする」ということで、そのニュアンスを活かせば「首根っこを押さえても」といった言い方にもなろうか。本当の礼儀は人が必ず行うべき間違いのないものであるからこれを強制しても構わない、というのが老子の論理である。おそらくこうしたくだけた表現の裏には当時、行われていた礼への批判があるのであろう。社会的通念、常識として「首根っこを押さえても」やらされるような無意味な礼への批判があったものと思われる。現代でも同様なことの起こっていることは言うまでもない。

宋常星『太上道徳経講義』(38ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(38ー6) 本当の道理(上義)を実践するならば、その意義はあるといえる。 仁や愛の及ばないところがある。またこれを養うことのできない場合もある。ただ一方的に恵みを施すだけということもある。こうした状態は自ずから生まれたものではない。本来的にあった状態でもない。何らかの要因があって作られたものである。本当の道理(上義)を行う君主は、本来的には仁を基本として、義を用いているので、あらゆる事において自然な決定をすることができた。しかし時代を経るにつれて道が明らかにならなくなり、人の心も荒れて、君臣や父子の間、夫婦や友人の仲にある種の偽りが生まれるようになって来た。そうであるから人々は真実と虚偽との適当なバランスを判断して、得失を考えて、意図を持った行動をして止むことがないのである。こうした意図的なやり方は、そのままにして終わることはない。そうであるから「本当の道理(義)を実践するならば、その意義はあるといえる」とあるのである。聖人の立場からこれを考えてみると、この世に正しきを戴く者が、人々の心を活性化させ得るのであり、失われた人の道を回復させ得るということになる。 〈奥義伝開〉もし本当の義が行えるのであれば、それは意図的であっても行われるべきとする。ただ本当の義が何かは「聖人」でなければ分からない。義とは「合理的な行動」である。本来、武術はそうしたものであった。そうであるから武術を練ることで合理的な行動や思考が身につくとされていた。孔子は弓術を重視しており『礼記』にも「射は仁の道なり」とあるのは自分と他人(的)との関係性を適切に構築することを学べるからである。

宋常星『太上道徳経講義』(38ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(38ー5) 本当の仁(上仁)はそれを実践しても、何もしていないようである。 太古の世の中の気風からだんだんと社会が開けて来て、人の純朴な心(樸)が失われてしまった。そうであるから太古の「徳」を行おうとする時に「仁」を借りなければならなくなったのである。本当の「仁」を行う君主はあらゆるものをひとつとして見ている。天地もひとつであり、君臣、父子も、区別なく(渾然)、思いやりの気持ち(惻隠)で結ばれている。家庭でも国家でも、世界でも、同様であり互いに恩恵を与え合って留まるところがないと見ているのである。そこにあって「仁」は「天」と等しく、その「愛」は「地」と同じ自然にあるものに過ぎない。そうであるから君主と民とは互いに安心して無事に暮らして行けるのである。君主は統治していることを忘れ、民は統治されていることを忘れている。こうした無為の道に君主も民も存している。適切な行為が適切な時に為され、全てが滞りなく運ばれて行く。そうしたことを「本当の仁はそれを実践しても、何もしていないようである」としている。太古の「徳」が「仁」として後世において行われているとしても、これは「徳」そのままではない。天の徳は無為であり、自然の働きそのままであることを知らなければならない。 〈奥義伝開〉ここで老子は「徳」と「仁」とを同じように扱っているが、「徳」を上とする。これは「徳」に「真っ直ぐな心の働き」という意味が本来的にあり、それが個人で完結しているものであるからである。一方の「仁」は「二人の関係」ということがもとで、これをいうなら「徳」が相手との関係において実践されたのが「仁」ということになる。ただ「徳」自体は自己一人の行為においても実践される。つまり人に知られないで善なる行為をする「陰徳」はあっても、「陰仁」とは言わないように、道の実践として「徳」の方がカバーする範囲が広いので、これを「仁」の上とするのである。