宋常星『太上道徳経講義』(38ー9)

 宋常星『太上道徳経講義』(38ー9)

つまり礼が言われるのは、忠や信が薄くなったからであり、ここから世の乱れが始まることになる。

ここも道、徳、仁、義のことが述べられている。次第にそうしたものが失われて礼に行き着くわけであるが、そうなれば世の中が乱れないということはない。実際に道が見失われたならば、そこでは徳が行われるようになる。徳が見られなくなれば、仁が行われるようになる。仁も顧みられなくなれば、義が行われるようになる。義も為されなくなれば、礼が行われるなる。更にもし礼も顧みられることがなくなれば、必ず世の中は乱れてしまうことであろう。そうであるから昔より聖人は、礼は人の本来の心のあり方によるのであり、人の邪な考えやかってな思い込みには、礼をもって正されるべきとしていたのである。しかし、それは余りにやり過ぎてはならないし、また足りないのも良くはない。礼を行おうとすると、必ずいろいろな規則を作ることになる。そうなれば必ず多くの作為が行われる。結果として形式が重んじられて真の忠実さや信用は希薄になる。そうなれば、礼ではなく(より強制力を持つ)刑罰が必要となる。また軍隊も無ければならなくなる。そうであるから「つまり礼が言われるのは、忠や信が薄くなったからであり、ここから世の乱れが始まることになる」とされているのである。


〈奥義伝開〉人が人である最後のラインである礼も失われてしまうと、人々は欲望のままに行動するようになる。老子は礼が失われることの具体的な説明として「忠」や「信」が失われたことをあげている。老子の生きた時代、都市や国の拡大して行く時代背景を考えると、それが社会の拡大に起因するものであることが分かる。古代の小さなエリアの社会は交通や通信、流通などの発達により拡大して行った。それは「知らない人」との交流がより広範囲で始まることを意味していた。そうなると個々人の信頼関係は希薄にならざるを得ない。こうした社会において最後の砦となるのが「礼」なのである。老子は礼が必要とされる社会を予想していたということができるであろう。ただ、それは道と一致したものでなければならない。つまり合理性を持ったもの、多様な価値観を許容できる行動パターンでなければならないわけである。


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