宋常星『太上道徳経講義』(38ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(38ー6)

本当の道理(上義)を実践するならば、その意義はあるといえる。

仁や愛の及ばないところがある。またこれを養うことのできない場合もある。ただ一方的に恵みを施すだけということもある。こうした状態は自ずから生まれたものではない。本来的にあった状態でもない。何らかの要因があって作られたものである。本当の道理(上義)を行う君主は、本来的には仁を基本として、義を用いているので、あらゆる事において自然な決定をすることができた。しかし時代を経るにつれて道が明らかにならなくなり、人の心も荒れて、君臣や父子の間、夫婦や友人の仲にある種の偽りが生まれるようになって来た。そうであるから人々は真実と虚偽との適当なバランスを判断して、得失を考えて、意図を持った行動をして止むことがないのである。こうした意図的なやり方は、そのままにして終わることはない。そうであるから「本当の道理(義)を実践するならば、その意義はあるといえる」とあるのである。聖人の立場からこれを考えてみると、この世に正しきを戴く者が、人々の心を活性化させ得るのであり、失われた人の道を回復させ得るということになる。


〈奥義伝開〉もし本当の義が行えるのであれば、それは意図的であっても行われるべきとする。ただ本当の義が何かは「聖人」でなければ分からない。義とは「合理的な行動」である。本来、武術はそうしたものであった。そうであるから武術を練ることで合理的な行動や思考が身につくとされていた。孔子は弓術を重視しており『礼記』にも「射は仁の道なり」とあるのは自分と他人(的)との関係性を適切に構築することを学べるからである。


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