宋常星『太上道徳経講義』(38ー10)

 宋常星『太上道徳経講義』(38ー10)

予言(前識)は道から受けた優れたもののように思われているが、実はそこから愚かなることが始まるのである。

「識」とは、知るということであり、他人の知らないことを知っているということであって、そうしたことが分かるのが「予言(前識)」である。多くのことを知れば知るほど、情報過多となる。そうなると次第に物事の本質からは遠くなってしまう。こうした「予言」といったものも道とは全く別にあるのではないが、道の本質からは逸脱している。道の本質にあっては見せかけではなく、確実であることを重視する。およそ何でも知っている等というのは、何も知らないのと同じである。何か他の人が知らない隠されたことを知ろうとすると、いい加減な妄想にとらわれることになる。日々、自分勝手な思い込み(有為)により、日々道から外れて行くことになる。これは極めて愚かなことである。そうであるから「予言(前識)は道から受けた優れたもののように思われているが、実はそこから愚かなることが始まるのである」とされているのである。


〈奥義伝開〉「前識」については韓非子でも触れられている。韓非子は「前識」について事が生じる前に知ることのできるものであり、理屈では分からないものとしている。そして現実とは「無縁」のもので「妄意」であるとする。道は合理的な倫理観の上にある。それは、お告げのような盲信や迷信とは全く関係のないものである。人はなんとかしてこれから起こることを知ろうとして来たが、それが不可能であることは歴史が証明している。ただ自己の欲望にとらわれている人は、自分だけの奇跡にすがろうとする。


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