道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(3)

 道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(3)

中国に入って来た仏教は密教の「壁」を「無名の樸」なるものへと還元させることで乗り越えようとした。それが禅宗である。本来、瞑想・定である禅は釈迦の時代から修行の根本をなすものであった。それに立ち返ろうというのであるが、単純にそれに戻っても悟りは得られないことは分かっている。そこで釈迦の時代の「禅」とされているものは違う、という立場を取る。ただ、単純にそうとは言えないので、釈迦の教えた「禅」は、上座部(小乗)で誤解されているとして、禅宗の「禅」が本来の「禅」であることを強調する。こうしたために禅宗の論理はしばしば破綻を来すことになる。そこをなんとか理解しようとするとするので「難解」と評されることにもなる。禅宗でも「道」への還元は目途とされたのであるが、実際はそうではなかったので大きな矛盾が生じてしまう。このように「無名の樸」の問題は、それが「道=原理」への還元を越えてしまうと過去の文化遺産を継承できなくなるところにある。余計なものを捨ててイノベーションができれば良いのであるが、捨て過ぎるとイノベーションが出来なくなって、かえって破綻に陥ることになるのである。


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