宋常星『太上道徳経講義』(38ー8)

 宋常星『太上道徳経講義』(38ー8)

つまり道が失われたら徳が現れて来るのであり、徳が失われたら仁が現れて来る。仁が失われたら義が現れて来る。義が失われたら礼が現れて来る。

この一文は、これまでに述べられていたことと同じである。そこでは本当の徳(上徳)、偽りの徳(下徳)、本当の仁(上仁)、本当の道理(上義)、本当の礼儀(上礼)の五段階による民の教導の道が示されていた。これらは総て民が、無為の道に反して有為を行うために行われなければならなくなったものである。民はそうした行為を意図して行うこともあれば、大した考えもなくやっていることもあるであろう。しかし、そうなると世の中はますます混沌としたものとなる。人の心も世の乱れにつれて、道を見失うことになる。徳が失われ、そうなると仁も失われる。仁が失われると義が失われる。義が失われれば、礼も失われる。こうして世の人の心から徳や仁、義、礼が忘れられて行くのである。そうなればあるべき統治を行うこともできなくなり、世は乱れてどうすることもできない。ここで言われている「つまり道が失われたら徳が現れて来るのであり、徳が失われたら仁が現れて来る。仁が失われたら義が現れて来る。義が失われたら礼が現れて来る」とはこのような意味なのである。


〈奥義伝開〉ここで注目すべきは関係性である。原文では「失と後」とで道と徳、徳と仁、仁と義、義と礼が関係付けられている。それは道が失われたなら徳が遅れて現れてくるという言い方である(「後」は「おくれて」と読む)。これは「代わって」と理解すべきではない。つまり道が失われて、それに代わって徳が現れたとするのではなく、道が行われて居た時には当然、徳も実行されていた。しかし、根本である道が失われると、人々はそれに近い徳を重要と思うようになるのであり、真に重要な道にまで思いが及ばなくなるわけである。イメージとしては山の頂上が次第に削れられて行くような感じであろうか。そして最後に残るのは人が人である最後のラインである礼となる。これが失われてしまうともはや人としてのアイデンティティを保つことができなくなる。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)