宋常星『太上道徳経講義』(39ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(39ー4)

神は「一」を得て不可思議な働き(霊)をするようになり、

天地が「一」を得て関係性が明らかとなり寧(やす)らかとなるだけではない。天地があれば、そこには必ず天地の神が居る。「神」とは天地の「徳」のことである。それは天と地の間に満ちており、その変化は窮まることがない。そうしたことは総て「神」の不可思議な働きと言えよう。こうした「神」が凝縮されたならば「元始の祖気」となる。これが散じれば上、下それぞれの「神(天の神、地の神)」となるのである。「元始の祖気」は、静であり「一」であるが、散じれば万となる。天地の神々が、もし「一」を得ることが無ければ不可思議な働きを表すことはない。千変万化することも不可能である。つまり神には「先天の神」と「後天の神」が居り、虚無自然である。清浄で無為の神も人は感じることができる。それは形を有し、思いイメージすることもできる神である。物質に近いレベルの神も居れば、霊的な高い境地の神も居る。修行を積んだ神は、人から生まれては居ない。天地の気によって生まれている。また陰神、陽神も居て、邪神や正神も居る。さらには生贄を求める先祖の神や英雄豪傑が神となったものも居る。先天の神とは、天地が開けた後に、先天の気の感応によって生まれた神で、永遠に存している。不壊不滅である。そうした神を先天の神という。後天の神は、天地が開けた後に生まれたもので、後天の気が集まって成っている。人と感応することもある。こうした神が後天の神である。虚無自然、清浄無為の神は、例えばこの世を超越したところに居る神で、こうした神を自然清浄無為の神ともいう。後天の神は、欲界に男女の形を有していて、こうした神が有形の神とされる。色界(物質のレベル)では物質的な思いが積み重なっているので、これを受色の神という。無色界(物質を超越したレベル)は空なる世界で物的なものは超越しているが、僅かに思いが残っている。こうした神を受識の神という。低いレベルから高いレベルへ、長い修行を積んだ神は、例えば東方聖帝が居る。東方聖帝は西ル無量玉国で長く修行をして、更には洞明玉国でも長い修行を積んだ。何万回も生まれ死んで、その数は計り知ることはできない。功徳は天に届く程であり、元始天尊は蒼帝の号を与えた。これを積刧修證の神という。母胎から生まれることなく先天の気によって生まれた神には、例えば飛天神王や五帝大魔が居る。これらは母胎を経ることなく生まれた神で、梵気妙化の神といわれる。陰神は陰気にのみ感応して現れる神で、陽神は陽気にのみ感応して現れる神である。邪神は粗雑な気に感応して現れ、正神は中和の気に感応して現れる。英烈の神は、古今の大忠、大孝の人が神となったもので、その英雄的な霊の気は死した後も散じることはなく、神となるのである。血食(供養を求める)の神は各土地の神で、河神や山神、祠の神など、人から祭りを受けて供養されている神で、こうしたものは総て血食の神である。神にはいろいろとあるが、これらを総(す)べれば元始天尊の一神となるのであり、元始尊神からあらゆる神々が派生している。正しい人は正しい神と感応し、邪な人は邪な神と感応するので、どのような神と出会うかはそれぞれである。そうであっても、時が至れば、その行為によって、正しい行いを重ねていれば「一」なるものが得られるであろうし、そうでなければ「一」は得られないであろう。「一」を得ることができれば、その変化は窮まりなく、その動きは精妙で他の人の知るところとはならない。粗暴な振る舞いをしなくても威を保ち、感じようとしなくても感応することができる。その働きは測り知れない。これば「神」の不可思議なところである。鬼神の理について考えるなら、鬼神は、陰陽の二気の良能である。天地の間にあって、陰陽の働かないところはない。つまり鬼神の働かないところはないのである。例えば雷や風雨の働き、雹や霜、雪の働き、これらも総て鬼神の働きである。鬼神にはそうした働きがあるのであり、集まったり、散じたり、開いたり、閉じたりするし、昇降、屈伸もする。こうしたことは「一」を得ているから可能なのである。「一」を得ているので集まったり、散じたりするのも自然に行われるわけであり、開いたり、閉じたりも、自然になされるのである。また昇降も、「一」を得ているので自然で、屈伸も「一」を得ているので自然なのである。こうして見ると「神」が「神」とされるのは、それが「一」を得ているあるからに他ならないことが分かる。つまり「霊(神の不可思議な働き)」も「一」の働きによるのであり、それがあらゆるところに及ぶのは、あらゆるところに「一」が及んでいるからである。そうであるから「神は「一」を得て不可思議な働き(霊)をするようになり」とあるのである。


〈奥義伝開〉ここでの「神」は「元始天神」のような「カミ」ではなく「不可思議な働きをするもの」という意味である。「神」の語は第六十章で見ることができる。それは「鬼(神)」が「神(不可思議な働き)」なることをしても自分にはそれが及ばない、という文脈で出てくる。ここでも、不可思議な働きをすると思われるものもあるが、それも統一されたシステムの内に生じているのであり、それは全く「自然」なことであるというのである。先に触れた第六十章では、道と一体となれば「鬼(神)」に傷つけられることはない、とするもので、要するに合理的な考え方ができるようになれば、そうした迷信で傷つくことはないということである。


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