宋常星『太上道徳経講義』(38ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(38ー5)

本当の仁(上仁)はそれを実践しても、何もしていないようである。

太古の世の中の気風からだんだんと社会が開けて来て、人の純朴な心(樸)が失われてしまった。そうであるから太古の「徳」を行おうとする時に「仁」を借りなければならなくなったのである。本当の「仁」を行う君主はあらゆるものをひとつとして見ている。天地もひとつであり、君臣、父子も、区別なく(渾然)、思いやりの気持ち(惻隠)で結ばれている。家庭でも国家でも、世界でも、同様であり互いに恩恵を与え合って留まるところがないと見ているのである。そこにあって「仁」は「天」と等しく、その「愛」は「地」と同じ自然にあるものに過ぎない。そうであるから君主と民とは互いに安心して無事に暮らして行けるのである。君主は統治していることを忘れ、民は統治されていることを忘れている。こうした無為の道に君主も民も存している。適切な行為が適切な時に為され、全てが滞りなく運ばれて行く。そうしたことを「本当の仁はそれを実践しても、何もしていないようである」としている。太古の「徳」が「仁」として後世において行われているとしても、これは「徳」そのままではない。天の徳は無為であり、自然の働きそのままであることを知らなければならない。


〈奥義伝開〉ここで老子は「徳」と「仁」とを同じように扱っているが、「徳」を上とする。これは「徳」に「真っ直ぐな心の働き」という意味が本来的にあり、それが個人で完結しているものであるからである。一方の「仁」は「二人の関係」ということがもとで、これをいうなら「徳」が相手との関係において実践されたのが「仁」ということになる。ただ「徳」自体は自己一人の行為においても実践される。つまり人に知られないで善なる行為をする「陰徳」はあっても、「陰仁」とは言わないように、道の実践として「徳」の方がカバーする範囲が広いので、これを「仁」の上とするのである。


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