道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(1)

 道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(1)

老子は第三十六章で「無名の樸」について触れている。「樸」とは価値や意義を付与される前の存在そのまま、あるがままのものということである。こうしたことを尊ぶ風潮は老子だけではなく中国文化の伝統というべきものである。この「無名の樸」には「名」は無いが、可能性としてはあらゆる「名」を持つことが考えられる。「木」は何の加工もされていないが、あらゆる加工の可能性を残している。つまり「無名の樸」とは、老子の「道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」(第四十二章)と同じで、この場合の「道」が「無名の樸」にあたるわけである。つまり「道=原理」から、万物が派生しているのであり、また万物は「原理」へと還元できるという思想である。武術の世界では限られた練習時間で最大の効果をあげるために、常に「一」あるいは「道」への還元が模索された。形意拳では特にその傾向が顕著なのであるが、その流れを受けた意拳では結果としてシステム構築を失敗してしまう。それは「道」への還元に留まらなかったためである。単純化はあくまで「道=原理」への還元まででなければならず、それを越えた時にシステム自体の破綻を招いてしまう。


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