道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(2)

 道徳武芸研究 「無名の樸」という文化風土(2)

「道=原理」への還元への傾向は中国仏教においても見ることができる。釈迦の没後しばらく経つと、釈迦の示した方法では、どうしても「苦」からの完全なる脱却ができないらしいことが分かって来た。そこで、それをより厳密に行うことで、可能性に賭けたのが上座部(小乗)仏教である。しかし、それでも悟りは得られない。こうした中に釈迦の教えは間違いであったと気づいた人は仏教を捨ててしまったのであろうが、どうしても悟りの可能性にすがろうとする人は、悟りを遥かの後に期待して当面はそのための善行を行おうとすることにした。これが菩薩道の発見である。しかし、そうした中でも、やはり現世での悟りへの可能性を求める人たちが居て、バラモン教の護摩などの修法に頼ることを考えた。それが密教である。仏教は本来は反バラモンの立場から出発したのであるが余程、困ったのであろう、密教になるとその禁断の「壁」をも破ってしまう。これで「即身成仏」が可能となるはずであったが、やはりそうは成らない。ここに仏教はインドでの命脈を閉じることになる。


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