宋常星『太上道徳経講義』(39ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(39ー1)

「理」の始めは「一」とされている。数の始めも「一」である。そうであるから「一」は大いなる道の本体とされる。「理」の究極(至理)が実際に現れたのが「一」である。また天地の奥深い根源も「一」である。万物の始まりも「一」である。あらゆる存在であって「一」でないものはない。「一」なる究極の「理」は存在はしているが限定されるものではない。陰陽の変化によって表され、鬼神が告げる吉凶によって示されるのも「一」でないものはない。「一」がなければ数というものは成り立たない。人がもし「一」を得ることができたならば、こだわりがなくなって(虚静恬淡)、何らの偏見もなく、道は我が身であり、我が身は道であると知り、有為の振る舞いはなくなる。およそ「一」による行為で不適切なものは存しない。この章で老子は「一」ということの大切さを述べている。これが人が人として立つ要であるとしているわけである。示されている天や地、神や谷、万物、侯王は総てそうしたことを述べるための例えである。そのところをよく理解しておかなければならない。


〈奥義伝開〉老子の言う「一」とは「調和のとれたシステム」のことであり、老子は天、地、人、物(人が作った物)のそれぞれにシステムがあって、それらを統括する全体(道)も調和が保たれており、また個々にあっても調和、協調しているので、円滑に全宇宙は運動し得ていると考えたいた。この中でそうしたシステムの乱れを起こす危険があるのは人であることは言うまでもなかろう。人において協調関係を保つべきなのは全宇宙に普遍的に通じている真の「理」であるからであるとしている。それは当然、人においても実践されなければならないというのが老子の教えなのである。


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