宋常星『太上道徳経講義』(38ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(38ー7)

本当の礼儀(上礼)を実践して、それに応じることがなければ、強いてもそれを行うべきである。

「義」による決然たる行為は、決して軽々に為されるべきではない。これには礼儀を説く一文が添えられなければなるまい。聖なる君主が、人々の心が正しくなく、世に多くの不正が行われているとして、規則を設けて人々の邪な心を正そうとする。外的な事柄をして人々の心の変化を促そうというわけであり、人々を外的な枠組みの中に入れてしまおうとするのが礼儀である。これらはすべて本当の礼儀によって為されなければならない。こうした場合、人々は見ることもできないし、聞くこともできず、愚かで、考えることもできないものとして扱われることになる。見てもそれを理解することができないし、聞いても何も分からない。礼儀を守らなくても、命令を無視しても、どうとも思わない。そうした民であっても聖なる君主は、それを救おうとする気持ちを捨てることはない。民を愛する気持ちは変わることがないのである。それで、どうすることもできなければ「強いてもそれを行うべきである」ということになる。要するに民に礼儀を強いるわけである。それが「強いてもそれを行うべきである」ということで、これは道、徳、仁、義が、日を経て時を移して廃れていっているからで、民の心は荒廃して、天の理は明らかにされず、それを人々は知ることもないからである。知ることがなければ「強いてもそれを行うべきである」ということになるのであり、ここには聖人が世の人を救おうとする心の強さを見るべきであろう。


〈奥義伝開〉ここで「強いてもそれを行うべきである」と訳したところは「攘臂(じょうひ)してこれによる」とある。「攘臂」とは「腕まくりをする」ということで、そのニュアンスを活かせば「首根っこを押さえても」といった言い方にもなろうか。本当の礼儀は人が必ず行うべき間違いのないものであるからこれを強制しても構わない、というのが老子の論理である。おそらくこうしたくだけた表現の裏には当時、行われていた礼への批判があるのであろう。社会的通念、常識として「首根っこを押さえても」やらされるような無意味な礼への批判があったものと思われる。現代でも同様なことの起こっていることは言うまでもない。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)