宋常星『太上道徳経講義』(39ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(39ー3)

天は「一」を得て関係性が明らかとなり(清)、地は「一」を得て寧(やす)らかとなり、

清気は上昇して天となると謂われている。濁気は下降して地となると謂われている。天地が「一」の妙を得るということに就いては「皇極経世経」を見るべきであろう。それには「天は一をして四に変化をする」とある。「四」とは太陰、少陰、太陽、少陽である。「一」が「四」に変化するということからは天の数とされる「五」が得られる(一と四とで)。こうした天の「五」におけるは「四」が具体的な形を持つものであるが「一」はそうではない。具体的な形を持つことのない「一」よって「四」は統括されている。そうであるから天の根源は「一」にあることになる。およそ天において見ることのできるのは、日月星辰であり、風雲雷雨、春夏秋冬、晦朔弦望(月の始めと終わり、半月と満月)の「四」である。昼夜の長い短い、暦の二十八宿の変化、これらは総て天において行われており、それは明確で一定している。それは、これらが総て「一」によっているからである。そうであるから「天は『一』を得て関係性が明らかとなり(清)」とあるのである。地の数もまた「一」と「四」である。「四」とは太剛太柔、少剛少柔である。「一」が「四」に変化しているのであるから、地においても「五」を得ることができる。「四」は具体的な形のあるもので、「一」はそうではない。具体的な形を持たない「一」は、これら「四」を統括している。そうであるから地の根源は「一」ということになる。およそ地の形は、山は固まっており、河海は流れている。草木は成長して、人は生きている。水火土石、万物は造化の中にあり、これらの秩序は改められることはない。それは地が「一」を得ているからに他ならない。そうであるから「地は『一』を得て寧(やす)らかとなる」とある。細かに地の「四」を見てみれば、太陽(日)は至陽の極みであり、太陰(月)は至陰の極みである。少陽はつまりは太陽の一部で、太陽のあるところでは少陽を見ることもできる。少陰も太陰の一部から派生したもので、これを辰の刻の気などと(限定した特定のものとして)理解してはならない。天を成しているのは「四」である。ただ「四」の形のみを天に見ることができる。これらの変化にしても、この「四」から外れることはない。例えば太陽は「日」である。太陰は「月」である。少陽は「星」で、少陰は「辰(北極星)」である。これらが関係しあって、天の道は動いている。また「日」は暑く、「月」は寒い、「星」は昼に出ているが、「辰」は夜に出て来る(注 これは今日の知見からすれば正確ではない。共に昼間も空に出ている)。暑寒昼夜、こうしたものが天の道の変化として見ることができる。つまり天の道には本来的に太陽太陰小陽小陰があるのであり、これらの働きによって日月星辰が運動をしている。また、こうした日月星辰の運動のあることで、暑寒昼夜が生じている。さらに暑寒昼夜の変化があることで春夏秋冬の秩序が生まれている。地の「四」は太柔は水の性質をで持っている。太剛は火の性質を持っている。少柔は土の性質を持っている。少剛は石の性質を持っている。こうしてこれら「四」によって地は成り立っているのであり、それ以外にはない。地の道の変化もその中に留まっている。例えば太柔は水、太合は火で、少柔は土、少剛は石であると述べたが、これらが関係しあって、地を成しているわけである。また水は雨となり、火は風となる。土は露となって、石は雷となる(注 これも現在の知見からは正しくはない)。雨風露雷も関係しあって、地の変化となる。そうであるから地の道は、太柔太剛少柔少剛の「四」につきるのであり、そこにあるのは水火土石の関係性なのである。これらはまた雨風露雷へと変化する。またそれは飛、潜、動、植(立つ)ということでも関係を有している。こうして見ると天地の働きは総て「一」によっていることが分かる。天地の根源は「一」であることが分かる。天地の変化も「一」によっているのであり、それはまさに「一」を得ることで適切な変化をし得ている。なんと偉大なことではないか。天地が「一」を得るという「理」のなんと奥深いことではないか。この文を読む者はよく精読をして「一」を得るべく努めなければならない。


〈奥義伝開〉宋常星は延々と説明をしているが、要するに天も地もひとつの統一したシステムとして動いているので、そこには一定の法則(道)を見ることができる、ということである。そうしたものが失われれば、天の秩序は乱れ、地の安定は失われるのは当然のことであろう。また「一」においては奇跡というイレギュラーは存在しない。不可思議と思うのは我々の知見が及ばないだけであり、時が来れば奇跡と思われるイレギュラーも一般的な道理の中に納まるようになるわけである。宝くじを売り出す時期になると西銀座の店が「よく当たる」として紹介されて多くの人が列をなしている映像を見るが、それは多くの人が買うから当たりが多く出るというだけのことである。どこそこの神社に参ったら、とかの類も同様で、話題になって多くの人が行くようになれば、確率的には同じなのであるから、当然、当たりも多く出るようになるわけである。ここには全く奇跡はないので、それを求めても無意味であるのであるが、多くの人はそれに気づこうとはしない。


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