宋常星『太上道徳経講義』(39ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(39ー5)

谷は「一」を得ているので盈(み)ちている。 

神が「一」を得て不可思議な働き(霊)をするだけではなく、谷の空間においてもそこに「一」が得られたならば、生命力(気)が満ちることになる。谷の空間は虚であり、そこには「一」がある。これはどこの谷という特定の谷を言っているのではない。例えば人には「人の谷」がある。物には「物の谷」がある。山には「山の谷」がある。川には「川の谷」がある。天には「天の谷」がある。地には「地の谷」がある。天地にもし「谷」が無かったならば、そこに運動の働く余地がなくなってしまい、変化も生まれない。人や物に「谷」がなくなってしまったら、性命(心と体の根本)の根の存するところがなくなる。山や川に「谷」がなければ、風(吐納の気)の吹くところがなくなってしまう。そうであるから天は「谷」があることで、その空間において働きをしている。地は「谷」があることで昇降、陰陽の働きをし得ている。人も「谷(丹田)」があることで神(心のエネルギー)や気(体のエネルギー)を変化させている。物は「谷」(という空間)があることであるべきところに存することができている。山も「谷」(という空間)があることで水を流すことができている。川も(水が流れている)「谷」があることであらゆるものを受け入れることができている。天において「谷」の働きが充分でなければ、天の働きは円滑になされることはない。地の「谷」の働きが充分でなければ、地の働きも適切には行われない。人に「谷」の働きがk充分でがなければ、神や気の変化も促されることはない。物に「谷」の働きが充分でなければ、物はあるべきところに存することはできない。山に「谷」の働きが充分でなければ、その水を適切に流すことはできず、川に「谷」の働きが充分でなければ、その流れも止まってしまう。つまり、これらの基となっているのは「谷」つまり「虚」なのである。それが満たされるというのは「一」に依る。「一」を得れば、谷神も死ぬことはない。それはそこに気が満ちているからである。例えばここで述べられている「谷」は、第六章の「谷神は死なない。これを玄牝という。玄牝の門は、これを天地の根と称す」とある、そのことなのである。そうであるから「谷は『一』を得ているので盈(み)ちている」とされている。


〈奥義伝開〉老子は「谷」のように「窪んだ所」に限りない生成の不思議を見ていたようである。第六章の「谷神」もそうであるし、四十一章では上徳を何でも別け隔てなく受け入れる「谷」のイメージとしている。また「淵」も等しく何でも受け入れる「道」に近いと考えられている。これは日本では「クラ」とよばれる空間で、そこに食べ物などを貯蔵しておくと自然に変容(発酵や乾燥など)が起こることが知られていた。このように窪んである程度、閉じられた空間が変容をもたらすと考えられていたのである。易では坤卦を表すバー「ーー」の間の空間が「谷」とされている。易によれば坤は「柔」であり「柔」には「谷」

がある。これを武術に応用したのが太極拳の「引進落空」である。「空」つまり「谷」へと相手を誘い込んで「変容」を促すわけである。この場合の「変容」は攻防の逆転で、こちらに向けられた攻撃が相手に返って行くことになる。


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