宋常星『太上道徳経講義』(39ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(39ー2)

昔に「一」を得ていたものとしては、

「昔」とは始めということである。天地、万物の始めである。「道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」(第四十二章)とあるが、つまり「一」は道から生まれているのである。つまり、無極(道)が先にあって、それから太極(一)が生まれたということで、「一は二を生み」は、つまりは太極(一)から両儀(二)に分かれたことを意味している。「二は三を生み」は、両儀(二)が生まれて、次に三才(三)が生じることである。「三は万物を生む」は、三才(天、人、地)があれば万物の存在は完全なものとなるということである。こうしたことからすれば「道」は「一」の母であり、「一」は「道」の子ということは明らかであろう。「昔に『一』を得ていたものとしては」とある、この「一」を得るとは究極の「理」を得ることなのである。総てはそこから始まるわけで、「一」を得るは、究極の正しい気が開かれなければならない。また「一」を得るとは、始めの数を得ることであり、万物の起こりを知ることでもある。この文章を読んだ人は、これを軽く考えてはならない。よくよく細部まで探究をしなければ「一」を得ることはできないであろう。つまり「一」とは自然が自然にそうなるということであって、他の意味があるわけではないのである。


〈奥義伝開〉あらゆるシステムの根本には「調和」と「統一」が保たれているというのが老子の考えである。この世はいろいろなシステムによって成り立っている。そしてそれぞれに合理的な法則(道)があり統一的な運動をしている。これが「一」という概念である。植芝盛平は戦後は、合気道は心身統一の道である、と言っていた。この状態にあって「心」と「身」は「一」つになっている。「心」と「身」の働きが区別されることがない。老子はこのような統一状態が人の本来的なあり方であると教えているわけである。またこうした考え方は後には「性命双修」として内丹の修行では特に重視された。こうした状態は「人」というシステム以外にもあらゆる自然界のシステムにおいて働いていると老子は考えるわけである。「昔」とあるのはこの世の発生時からということである。「一」は森羅万象の成り立ちから存する普遍的な真理であるということである。


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