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道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(6)

  道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(6) かつて鄭曼青は師の楊澄甫から「鬆」の大切さを教えられたが、なかなかその真義を理解できないでいた。ある時は「力を抜きすぎている」と言われ、ある時には「硬い」と叱られた。有名な話では夢で腕が折れる体験をして「鬆」を悟ったとされている。これも稽古の場を離れ、日常の意識がなくなることで、新たな視野を獲得できて「鬆」字訣の真義を会得できたわけである。これは問題を「寝かしていた」に等しい状態であったことは言うまでもなかろう。そして後に左莱蓬から「力は骨に発し、勁は筋による」の秘訣を得て、これで太極拳の奥義を悟ったとされる。この秘訣は実は「鬆」の具体的な使い方を示いている。「骨」とは体の使い方のことで、合理的な突き方、受け方など基本的な体の使い方はどの武術でも変わることはない。一方「筋」と皮膚感覚のことで、これにより「力」を微細に調整して効果的に用いることができる。つまり太極拳において武術的な力、つまり「勁」を使おうとするのであれば皮膚感覚が開いていなければならないのである。たとえば抑え技でも、いくら剛力をして抑えても肝心なポイントがずれていると簡単に外されてしまう。これは「骨」だけによるからで、そこに「筋」の働きを加えて抑えるポイントを確実にすれば正しく技を極めることが可能となるわけである。

道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(5)

  道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(5) 日本の武術のように、ただ「口伝あり」とするだけではなく、あえて「口伝」を言語化する努力を中国武術では行っているわけであるが、これを学習効果ということから言えば、字訣を得てから何年か後に気づくことのできることができる利点も認められる。長く練習をして心身の状態が整って来た時に初めて字訣の本当の意味が理解できるようになることが往々にしてあるわけである。これは一般的にも難しい問題を解決する時に「置いておく」「寝かしておく」ことの重要性が説かれることでも分かろう。解決の難しい問題はそれだけを集中して考えても、なかなか良い解決策は得られない。一旦、それを離れて視野を大きく取ることで関係ないと思っていたようなところに意外な解決法が見出されることもある。このように武術の修行でも心身の状態が変化することで新たな視点が獲得され、字訣の示すことが理解されることもあるわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(21ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(21ー2) 深遠なる徳(孔徳)の容(かたち)は、ただ道に依っている。 「深遠なる徳(孔徳)」とは一般的にいわれる「有為の徳」のことではない。あらゆる物の「容(かたち)」と「大いなる徳」は同じである。それは全てを受け入れている「太虚」と等しいものであり、「容」と「大いなる徳」の間に区別を求めることはできない。そこにはあらゆるものが含まれている。また反対に「大いなる徳」と「容」とが同であるとも言える。「ただ」とあるのは「ひとつ」ということで、「依っている」とは従うということである。「徳」はそれが他の物と別に存しているのではない。「徳」は必ず「道」によって存している。「道」による「徳」であるために(有為の徳とは異なり)「深遠なる徳」と称されているわけである。「大いなる徳」は天地の「徳」であり、聖人もこれを有している。この聖人の「徳」はまた天地の「徳」とも等しい。この世に存する物で「道」に依拠しないものはない。また聖人の「徳」も「道」によらないものはない。天地は万物を受け入れることができる。聖人もまた万人を受け入れることができる。つまり聖人はあらゆる民の「徳」を受け入れるのであり、天地はあらゆる物の「徳」をも受け入れるということである。すべては「一」であり、それが「徳」なのである。人は天地の大なるを知っているが、「大いなる徳」の大いなることを知らない。「大いなる徳」にはきまった形はない。天地にはそれぞれのものに形があり、それを通して天地のあることが分かるのであるが、形のないものを見ることはできない。もし色(物質)と空とが同じであることを悟ることができたならば、有無も本来的に「一」つなのであり、大地、大河も空の中から生まれたひとつの形なのである。自然は真に空なのであり、その働きは「深遠なる徳」と同じでもある。つまり天地はごく小さな空間にも収まるもので、微小な空間の中に崑崙山でも、世界の海でもそこに収めることができる。形にはきまった形というものはなく、どんな小さなところであっても、どんな大きなものをも入れることができる。大は小と等しいという秘密の教えは、天地だけではなく、聖人でも普通の人にも当てはまる。もし、個人の欲望にとらわれたならば、その徳は大きなものではなくなる。そうであるからそこに含まれることも限定したものとなる。「深遠なる徳」の奥義は、そ

宋常星『太上道徳経講義』(21ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(21ー1) 「道」とは「理」であるとされる。「理」のあるところには「気」がある。「理」と「気」があって造化が生じる。そして造化によって万物が生み出される。また造化が生み出すものには「動静の機」がある。「陰陽の妙」がある。陰陽の二気が交わる時、万物は一定の変化をする。「動」においても、どのようにでも動くわけではない。時機が熟して初めて動くことになる。「生」においても、どのようにでも生じるわけではない。時機が熟して生じることになる。ものが「生」まれる時、まさに天地の徳がひとつとなり、日月はその働きをひとつにし、時間も秩序だって動き、鬼神は吉凶を適切にもたらす。こうした造化の生じるその時があるので、万物も存している。太極の働きは完全であり、すべてがそれによっている。これは生死の重要な鍵であり、人が本来有している徳で本来、人が有しているものであり、造化の根幹でもある。こうしたことの奥深い意味としては、有無に関係してはいない。一定の形に留まるものではない、天地の大本であり、万物の大元で、聖人はすべてこの理を体現している、ということになる。そうであるから聖なる人とされるわけである。神仙もすべてこの理を体現している。そうであるから仙なる人とされるわけである。ここでは「衆甫」の語を見ることができるが、まさに「衆甫」とはこうした意味なのである。この文を読む優れた人は、こうした造物の機微をよく知ることができているであろうか。はたしてよく造物の重要な鍵であることが理解されているであろうか。天地の「衆甫」は、けっして個々人の「衆甫」と違っているものではない。特に思うのは道は天地を包んでいるということである。しかし、それがどこに働いているのか細かに見てみても、道を見出すことはできない。深遠なる徳(孔徳)の「徳」も、それは同様である。また「淵」であっても、その奥底を捉えることはできない。それをどこにも見出すことはできない。無欲、無為で、万物にこだわることはなく、道と完全に一致している。つまりこうしたことからすれば「大道の全神(注 全神は大道と一体となった意識のことでこれは「性」といわれることがある)」こそが、深遠なる徳(孔徳)ということになる。深遠なる徳(孔徳)の妙用とはすなわち大道のことでもある。こうしたことを体得することが、ここで説かれていることになる。 〈奥

宋常星『太上道徳経講義』(20ー12)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー12) 自分一人は他人と異なり、「母を食べる」のを大切にしている。 「異なり」とは同じでは無いということである。道は万物の母である。そうであるからここでは「母」とある。道は道であり、徳は徳、失うは失うであって、誰と誰で違っているということは無い。そうであるなら「自分一人は他人と異なり」とはどういうことであろうか。人は道によって生まれている。物も道によって成り立っている。つまり道も人も同じなのである。ただ人が自分を道と同じとは思わないことがあるに過ぎない。「自分一人は他人と異なり」とは「他人」が道と同じではないと思っているからである。「他人」が道と同じと思っていないのは、「母の気」を食べていないからである。「他人」がよく道を体すれば、君臣でも、父子であっても、またどのような物でも、ことごとく道でないものはないことが分かる。つまりこれが「母の気」を食るということであり、これは嬰児が母乳を飲むのと同じである。「母乳=母の気」を食ることができれば、性命は全ったきものとなる。もし得ることができなければ、性命を保つことは困難となる。これが「食母の道」である。どのような人の性命であっても「自分」と違うものではなく、万物と言えども違うことは無い。「自分」の貴ぶのは、「他人」もまた貴ぶものである。「自分」が得ているものは、「他人」も得ている。天地、人、物、これらは混然一体であり一なる母の子なのである。善悪も同じ心より発している。「分かりました」も「嫌だ」も同じで、「何でも分かっている(昭昭)」ことも、それが使えないのも変わらない。「細かなことまでよく吟味をしている(察察)」のも、それが用いることがないのも変わりはしない。異なるものでも、道においては同じで無いものは無い。この章では深く「食母」を重視している。「食母」の意味が分かれば、どのような環境にあっても、楽しく居られないということは無い。行おうとして行い得ないことも無い。どのような人であっても、最も適切な状況に居て、何ものにもとらわれることが無い。そして「食母」を得たならば、またそこから離れて行くのである。 〈奥義伝開〉ここで「食母」という奇異な表現が突然出てくるが、こうした意味の明らかでない言い方を老子が出して来る時は、古くからの格言や信仰によることが多く、その真義を明らかにしようとする。「食

道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(4)

  道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(4) 太極拳で最も重視される秘訣に「ポン(手偏に朋)勁」がある。また太極拳の攻防の基本である四正の「ポン、リ、擠、按」でも「ポン」を見ることができる。注意しなければならないのは「ポン勁」の「ポン」と「ポン、リ、擠、按」の「ポン」は同じではないという点である。「ポン勁」は太極拳全体の力の使い方をいうもので、「ポン、リ、擠、按」の「ポン」は「斜め上への崩し」という限定した動きを意味する。もちろんこの「ポン」においても「ポン勁」が用いられている。当然のことであるが斜め下に崩す「リ」でも、前に押す「擠」でも、下に落とす「按」であっても等しく「ポン勁」は用いられる。「ポン勁」は「鬆」に由来する。「鬆」は単にリラックスや力を抜くことではない。瞬間的に力を抜くことでまた瞬時に力を集中させる秘訣である。こうした「鬆」によって相手の攻撃を柔らかに受け(化)ることで、「ポン、リ、擠、按」へと導く(走)ことが可能となる。もし正しい字訣を得たならばおおまかな理解ではなく、形の動きと攻防の原則にあったものとして深く考察する必要がある。また字訣は非常に実用的なものであることにも留意しておくべきであろう。もし字訣に有効性、実用性を感じなかったならば、「何か理解に足りないところがある」と思った方が良い。

道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(3)

  道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(3) 一字や四字で、深い教えを述べようとするのが中国武術の伝授の方法であった。しかし日本の武術の伝書では「口伝有り」とするのみで、その「口伝」がどのようなものであるのかは記していない。一方、中国武術では「化」であるとか「走」などとあるので、一定程度のイメージを持つことが可能である。しかし、実際のところは師からの口伝がなければ深い意味を知ることはできない。結局のところ「口伝」がなければ本当のことは分からないのであるから、ある意味ではわざわざ苦労して字訣を選んで記す必要も無い。そう考えたのが日本の武術家たちであった。これに対してもし弟子が充分には理解できなくても、時を越えて、人を越えて貴重な教えを、真に理解することのできる人が居るかもしれない、との可能性を信じたのが中国の武術家たちであった。これは戦争の多かった中国でおおくの場合に伝えるべき弟子の居ないこともあったからである。事実、通臂拳の張志通は台湾に来て弟子が少なくその伝承を諦めている。聞くところでは張が大陸で学んだ頃には弟子となって学んだ人が数百人も居て、その中で数人のみが最後まで残って教えを受け継いだという。これを1%とすれば、台湾で五十人、六十人の弟子しか得られないとすれば、その1%は一人に満たないものとなってしまう。そこで張は秘訣を本に記して残したのであった。はたして後に通臂拳の秘訣をよく解読し得る人物は現れるであろうか。

道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(2)

  道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(2) 「舎己従人」は「己を捨(舎)てて人に従う」であり、一般的には虚心坦懐に他人の言うことを理解するという意味に使われる。これを太極拳では、相手の動静を知る聴勁の働きの秘訣としたわけであるが、これにはもうひとつ意味があって「己を捨てて人を従える」となる。他人を従えるわけである。太極拳では相手の動きを知った(聴)なら、それによってこちらが優位なように相手を導いて行く。これが「人を従える」である。「打手歌」という秘訣を記した歌では「合えばすなわち出る」とあるが、「合」が「人に従う」で、「出」は「人を従える」とすることができる。「合」と「出」を同じく「従人」に込めているのは、それらが現実には一度に行われるためである。相手に触れた瞬間にその動きを知ってコントロールしている。こうした攻防の間合いのも「妙」も「舎己従人」には含められている。これらはまた柔らかに受ける「化」と、コントロールをする「走」としても表現されている。「化」はよく「受け流す」と解されることが多いが、それであれば防御(合)と攻撃・反撃(出)が一体となった太極拳の動きが充分に説明できているとはいえない。「化」はあくまで相手の攻撃を柔らかに受けることで相手の反撃を封じて、その攻撃の力の勢いをずらせ攻防を転ずるものでなければならない。

道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(1)

  道徳武芸研究 中国武術の「秘訣」の世界(1) 中国武術で秘訣をいう場合にはよく字缺(一字訣)が用いられる。字缺とは一字をして秘訣を表すもので、たとえば太極拳であれば「柔」であるとか「鬆」などがよく知られている。また「舎己従人」のように四字のものも多い。これは「舎己」と「従人」を組み合わせて「舎己従人」の意味とする。つまり「舎己」は「己を捨(舎)てる」であり、これは相手の動きをよく知ることをいっている。太極拳ではこうした能力を「聴勁」と称する。攻防において先ずは聴勁が用いられなければならないことを「舎己」は示しているといえよう。そして「従人」は「人に従う」で相手と離れないことである。これは太極拳では「粘」と称され、「粘」を成功させるにはやはり聴勁が磨かれていなければならない。こうして見ると「舎己従人」はつまるところ聴勁の攻防における用い方を教えるもので、そのベースには「粘」があることが分かる。「舎己従人」はつまるところ「聴」や「粘」の一字訣とすることもできる。この時に「聴」勁が働いているだけであれば、相手の動静を知ることができるだけとなる。攻防において重要なことは、それがどのように展開されるのかにある。また「舎己従人」だけでも、どうすればそうした状態が生み出されるのか知ることはできない。中国武術における秘訣はいろいろとあっても結局はひとつの門派であれば、同じことを示していると見なければならない。こうして複合的に字訣を考えることで、一字や四字の少ない情報から広く、深い情報へと広げることが可能となるわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(20ー11)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー11) 多くの人は皆、存在理由を持っているが、自分一人はただただ理由もなく(鄙)生きているだけである。 「存在理由」とは行うべきことがあるために有することができている。「ただただ」とは頑迷であるということである。「理由もなく(鄙)」は価値がない、ということである。「多くの人は皆、存在理由を持っている」というのは、先の愚か(忽)なのは海のようで漂って留まるところも無い、というのと同じであり、これは世間一般の人のことを言っている。すべからくこうした人たちは自分のかってな考えをもって行動をしている。そうであるから海の水のように漂い流れているのであり、自分かってな考えを止めることもできない。そうした思いに流されるのを留めることも不可能なのである。真を捨ててでたらめを選んでしまう。それはあらゆるところでそうなってしまうのであり、正しいことを間違ったことと考えてしまい、間違ったことを正しいことと思ってしまう。君子をして小人と思い、小人をして君子と思う。こうして混乱を極めることになるのであるが、それも「存在理由を持っている」と思うからに他ならない。「生きているだけ」というのは「ただただ理由もない(鄙)」からである。これはつまりは無為の道にあるということに他ならない。どんな人でもそれぞれの性質はあるものであるが、そうしたことに関わりなく「無為の身」を修するべきである。「無為の身」であれば「無為の家」が整う。「無為の家」であれば「無為の国」が治まる。「無為の国」であれば「無為の天下」が平かとなる。こうして世の中が治まって行くのであり、すべてが「無為」でつながっていて、渾然として何らの作為も無い。そうであるから「多くの人は皆、存在理由を持っているが、自分一人はただただ理由もなく(鄙)生きているだけである」としているのである。 〈奥義伝開〉ここでは静坐の秘訣として「鄙(ひ)」があげられている。「鄙」は「おおざとへん」が村を意味し、右は耕作地と米庫を表すという。「鄙」は田舎という意味であるが、要するに田園風景を表しているのが「鄙」の本来の意味であった。これが転じて洗練されていない、卑しいなどの意味に用いられるようにもなって行く。老子の語る「鄙」は他のところでの「樸」と同じで、自然のままといったと意味で、先に見た「嬰児」と同じ境地を示している。自分が生きて

宋常星『太上道徳経講義』(20ー10)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー10) 愚か(忽)なのは海のようで、漂って留まるところが無い。 世俗の人は、何でも分かっていたり(昭昭)、細かなことまでよく吟味をしている(察察)が、それらは自分勝手な思い込みであり、けっして正しいものではない。そしてそうしたところからは正しくない感情が生まれ出るが、それは海のようで果も無く漂い流れて、無限に落ちるところまで落ちて行く。そうであるから、愚か(忽)なのは海のよう、としているのであり、その漂うことは留まることが無いとある。本当に人は穢れた世にある。妻子は居るし、名声や金銭にも目が行って、止むことが無い。それは波に揉まれているようでもあり、こうした欲望の岸から離れて「彼岸」へと至ることもできない。ただただ苦海にあって、漂うに任せている。もし、よくこうしたことが分かったならば、自分を振り返って欲望から離脱するべきである。道は遠い彼方にあるのではなく、ごく身近にあることであるのであるから。 〈奥義伝開〉宋常星は「忽」を好ましくないものとして受け取っているが、そうではあるまい。これは前の「昏」や「悶悶」を受けて述べていることで、静坐のもうひとつの秘訣である「忽」が語られる。「忽」とは何も考えられないような愚か者のことであるが、そのように特定の思いにとらわれることがないのが静坐である。仏教も坐禅を重視するがそれはあくまで仏教教理を自分に刷り込むために他ならない。しかし、経典を見てみると坐禅をして仏教の教えは価値がないものと気づいて離れていく人の居たことが記されている。これが自然な瞑想であり、大海原を自由に泳ぎ回るように、どのようにも自分の考えを自由に解放することが重要なのである。それが「忽」字の秘訣ということになる。

宋常星『太上道徳経講義』(20ー9)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー9) 多くの人は何でも分かっている(昭昭)ように振る舞うが、自分一人は何も分かっていない(昏)でいる。多くの人は細かなことまでよく吟味をしている(察察)が、自分一人は何も分かっていない(悶悶)ようである。 「何でも分かっている(昭昭)」とは、いろいろなことを理解しているということであり、多くの事柄に渡って考えを巡らせているということである。「何も分かっていない(昏)」とは視覚や聴覚を収斂させて、外的な事柄をよく見聞きしていないような状態にあることである。「細かなことまでよく吟味をしている(察察)」とは、自分の考えを巡らせて、細かなところまでよく見ているということである。「何も分かっていない(悶悶)よう」とは、徳を見て物にとらわれないことで、ただ徳だけに純粋にかかわって他に関心を持とうとしない様子のことである。ここでは「多くの人は」として、全く愚かな人の心のあり方を言い、これが世間一般の俗人とされる人たちの考えであるとする。それは常に功名や財産を求めていて、それが満たされないとむやみに私欲による怒りの気持ちを抱くものである。また他人と比べてみたり、是非を殊更に論じてみたりして、その心は思い込みや勘違いから逃れることができない。ただ名誉や利益を求めるだけの俗人を「何でも分かっている(昭昭)」とするならば、老子は「分かっていない(昏)よう」ということになる。俗人は「細かなことまでよく吟味をしている(察察)」としたなら、老子は「何も分かっていない(悶悶)よう」ということになる。これらは老子と俗人の心が違っているということを述べているもので、人によってはそうではない人も居ることであろうが、ここではこうした言い方をしている。 〈奥義伝開〉「昏」や「悶悶」は老子の静坐の秘訣といえよう。「昏」は日暮れを示す形から生まれた字で、暗い意識状態をいう。そして何も考えられないような愚かなことをいうこともある。これは静坐の観点からすればひとつの考えにとらわれない状態といえる。静坐はヨーガや禅のように集中を求めない。ただぼーとしていれば良い。暗い闇の中に沈んでいるある種の渾沌とした意識状態のままで良いのである。また「悶悶」の「悶」は「心」が「門」の中にあって出てこられない状態を示している。心に思うことが言い出せないので悶々とするのであるが、ここではこうした現

道徳武芸研究 採腿とは何か(4)

  道徳武芸研究 採腿とは何か(4) 採腿の「採」とは相手を捉えるという意味がある。そうであるから太極拳の分脚もトウ脚も擺脚もそれらは少林拳とは異なり、相手に触れることで聴勁を使ってその動きを捉えるものとして使われる。そうであるからただ蹴るのではなく、主としては相手の体勢を崩すために用いられるわけである。これは形意拳や八卦掌でも変わりはない。特に八卦掌の扣歩の形はその意味を如実に示している。龍形八卦掌で扣歩の足を浮かせているのは空中で扣、擺歩に変化をして多彩な腿法を展開させることができる。一方、形意拳のような採腿は踏み込むようにして相手の体勢を崩してしまう。相手の膝でも腹部でも踏み込むようにして腿法を用いるわけである。この場合は変化はあまり考えない。つまり一言で「採腿」といっても太極拳、形意拳、八卦掌でその使い方は一様ではない、ということである。太極拳の採腿は相手に触れることで、どのように動くかを知るものであるし、形意拳は体勢を崩すもの、八卦掌は思いもよらない角度から腿法を使って相手を翻弄するのである。

道徳武芸研究 採腿とは何か(3)

  道徳武芸研究 採腿とは何か(3) 九九太極拳、龍形八卦掌をよく理解するためには形意拳の習得が不可欠であるが、これらが優れているのは太極拳は太極拳としての秘伝をよく残し、八卦掌は八卦掌の奥義をよく伝えている点である。ちなみに九九太極拳には他の太極拳には形としては見られない採腿を取り入れている。採腿の観点からすれば形意拳の狸猫倒上樹はそのままの形であるが、龍形八卦掌の足を上げる形は扣歩の「採腿」とすることができる。形意拳が擺歩の「採腿」であるとすれば、八卦掌は扣歩の「採腿」と対になる。確かに形意拳は三体式を見ても分かるように一歩目を擺歩で踏み出す。これに対して八卦掌は常に扣歩から始まる。これは勢いが外に開いて力を発するものであるか、内に向かった相手を巻き込むものであるかの違いということもできるであろう。

道徳武芸研究 採腿とは何か(2)

  道徳武芸研究 採腿とは何か(2) ただ龍形八卦掌の「龍形」を考える場合に最も重要なことは狸猫倒上樹にある。つまり龍形八卦掌の特徴ともいえる換掌の時に足を上げる動作が狸猫倒上樹と同じく「採腿」であるという点である。本来ネジリの身法を基本とする八卦掌では換掌の時には扣歩となって充分にネジリを利かせてその反発として歩法(擺歩)が踏み出される。それはスプリングの反発にも譬えられる。そうであるから換掌の時に足を上げてしまうと力の溜めができなくなるので八卦掌としての身法、歩法からすれば適当ではない。もちろん龍形八卦掌でも基本の定歩では扣歩で換掌を行うのであるが、一般的には形意拳を主として練る人たちの間では定歩・扣歩の基本練習は省略されることが多いようである。それはベースの力は八卦掌ではなく形意拳を使うので必ずしも八卦掌の力の鍛錬をする必要がないからといえる。かつて中央国術館で編纂されたとされる九九(双辺)太極拳、龍形八卦掌であるが、形意拳だけは形意拳で「九九」や「龍形」が冠せらられることがないのは、これらのシステムにおいて形意拳が中心であるために他ならない。

道徳武芸研究 採腿とは何か(1)

  道徳武芸研究 採腿とは何か(1) 秘伝としての採腿が載せられているのは陳炎林の『太極拳刀劍桿散手合編』である。採腿はトウ脚と似ているが、足先を少し外側にして踏みつけるようにする。これが何故、秘伝かと言えばこの腿法から千変万化の蹴り技を生み出すことができるからである。ただ太極拳の套露には採腿は無い。一方、形意拳では狸猫倒上樹に採腿が出て来る。また同様な腿法は十二形の龍形にも見ることができる。こうした観点からすれば龍形八卦掌の「龍形」も狸猫倒上樹から来ていることが類推される。つまり形意拳に伝わる八卦掌は十二形の龍形の変化として形意拳の中に位置付けられていたわけである。ただ八卦掌では龍の他に獅子であるとか虎、蛇、鵬、猿、熊なども見ることができる。ただそれらの動きも総じて全身にネジリのあるものであり、龍の動きとの共通性を見ることは充分に可能ではある。

宋常星『太上道徳経講義』(20ー8)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー8) 多くの人は余りある程持っているが、自分一人は必要以上に持つことはない。 一般の人の気持ちとしては、常に「足りないのではないか」と不安に思うものであろう。そして終日、止むこと無く名誉や金銭を求めて、繁栄やを追い、損得に執着している。そして自分の思い通りにしようとして、その欲望は止むことが無い。多くの人はただただ余る程の物を求めているが、自分一人はまったくそうではない。そうでないのは、求める心を棄てて、知足の思いを持っているからである。名誉が我が心を乱すことは無く、利得が我が心を惑わすことも無い。ただ道が求められるべきものであることを知るのみであり、その他に求めるものなど無い。何事にもとらわれること無く(空空洞洞)、常に清らかで、常に静かで、本当の自由を知っている。そうであるから「多くの人は余りある程持っているが、自分一人は必要以上に持つことはない」とあるのである。 〈奥義伝開〉余計なものはかえって邪魔になる。人が物を持つのはそれで生活が良くなるからであろう。しかし余りに不必要な物を持つと、それはかえって生活を抑圧するようになってしまう。これは物だけではなく、行動全般にわたる注意点であろう。入学式、卒業式、成人式などといった儀式に執着する人も多いがそれにどれ程の価値があるのか。「本当に自分にとって必要なのか」を問い直しても良いのかもしれない。また多額の税金を浪費して行われる無意味な儀式についても、「本当に必要か」と改めて考えて見れば無意味さが分かってくるのではなかろうか。

宋常星『太上道徳経講義』(20ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー7) 自分はただ一人で静かにして(泊)いて動く気配さえも無い。それはいまだ大きくなっていない嬰児と同じであり、動こうとして動くこと(乗乗)のない状態でいる。 「静かにしていて(泊)」とは、こだわりが無い状態のことである。「動く気配さえも無い」とは、動こうとする思いさえも浮かんでいないということである。「嬰児」とは、まだ大きくなっていない子供のことである。「乗乗」は動こうとして動いていない時のことで、「帰るところがない」とは、渾沌の中に一切のことを忘れている様子である。つまりこれは心の働きが無く、決まった動きも見られない状態であり、結局は確固としたものが存していないわけである。ここに述べられているのは、一般の人の貪欲さがいまだ発現していない状態であり、自分一人がそこに留まっているとしている。貪欲さがいまだ発現していないが、発現しそうでもあるのは世の人々と同様の価値観にとらわれているからである。貪欲さが発現することが無いのは、老子のように道をこそ価値あるものと認めているからに他ならない。道の味わいは深く、どこにあってもそれを味わうことができる。しかし世間の人と同じ価値観に立っていると、あらゆる場面で満足することはできない。そうなるとそうしたことを断ってしまおうと切に思うようになるものである。無欲であり無為である、その妙味はいまだ成長していない嬰児と同じで、何の知識も認識も無い、考えることも思いを抱くことも無い、ただ母乳を欲しがるだけで、世俗の欲望を知ることもない。老子は道を味わうことで充分として、世間の価値観と交わることが無かったのであり、これは嬰児と同じである。そうであるから「それはいまだ大きくなっていない嬰児と同じ」としている。そして「乗乗」とは、兆しもない時のことで、それは何も為されていないようでもあるし、何かが為されてしまっているようでもある。こうした心の徳の妙は、その跡を残すことは無い。形を為すことも無く、一定の形になることも無い。それは、決まった働きをすることもないとも言えよう。そうであるから「乗乗としていて決まった働きをすることもない」とある。人は思いが生じる前の段階でこそ道の味わいを知ることができるのであり、これが「静かにして(泊)いて動く気配さえも無い」という時である。無欲、無為で、思いも考えも無い。つまり成長してい

宋常星『太上道徳経講義』(20ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー6) 多くの人が喜ぶのは、饗(もてな)しを受けた時であり、春に高台に登った時である。 ここと前の「荒れているとしても、それで終わりということではない」とは、世俗の楽しみを貪ること、世俗の快楽に溺れることが、如何に畏れるべきものであるかを知らない人が多いので述べられている。つまり喜ぶのは、他人と比べて喜んでいるのであり、それはおおいなる饗しを受けたり、春に高台に登るといった特別待遇を受ける時に感じる喜びと同じなのである。心の目をよく見開いて、よくよく見たならば、楽しみを貪る気持ちに果ての無いことが分かるであろう。そうであるから、ここにおおいなる饗しや春に高台に登ることをして、世俗の楽しみに溺れることを譬えているわけである。 〈奥義伝開〉人が喜びを覚えるのは肉体的なことや感覚的なことにおいてである。多くの美味なる食べ物を振る舞われたり、春に高台に登って気持ち良い風に吹かれたりするのは心地よいものではある。これに対して次にあるような一人で静坐をしているのは無味乾燥で何らの楽しみもないように思われるかもしれないがそうではない。こうした自分の外で得られた楽しみは、それをまた得るには自分以外のものに頼らなければならない。豪華な食事に招待してくれる人、高い塔、春などがなければならない。しかし本当に楽しいことは心の中にこそあるのである。

道徳武芸研究 八卦掌と入身〜単換掌と双換掌〜(4)

  道徳武芸研究 八卦掌と入身〜単換掌と双換掌〜(4) 劉雲樵は八卦掌の特徴を「挿」にあるとしていた。これは「差し込む」という意味で、まさに単換掌式の入身を言うものであると考えられるが、あるいは「挿」は牛舌掌に代表させられる所謂「貫手」のような動きをイメージしているのかもしれない。そうなると単換掌式ではなく同じく八掌式の中の扣掌式とした方が良いのかもしれない。扣掌式は五指を揃えた掌形で相手の防御を制して、それを引っ掛け崩すものである。ただ劉雲樵は必ずしも牛舌掌にこだわることなくその伝えた八卦掌では時に指を開く龍爪掌をも使っているので、やはり「挿」は単換掌式のことと理解するべきであろう。八掌式では入身の秘法である単換掌式と双換掌式に続いて転換の秘法ともいうべき蛇形掌式(相手の攻撃を巻き込む)と扣掌式(相手の攻撃を引き落とす)がある。これは蛇形掌式が「陰」で、扣掌式は「陽」となる。こうした陰陽の動きは単純にいえば「受け」と「攻撃」としてイメージしても良かろう。どの八卦掌の門派でも単換掌、双換掌があるのはそれが八卦掌における核心の入身を練るものであるからに他ならない。ただ一部では伝承される中で掌式の考え方が失われて形が崩れつつあるものも少なくないようではある。

道徳武芸研究 八卦掌と入身〜単換掌と双換掌〜(3)

  道徳武芸研究 八卦掌と入身〜単換掌と双換掌〜(3) 単換掌式がもし不十分であったなら、双換掌式で、もう一方、踏み込んだ入身をする。この時こちらは相手の背後あたりに居ることになる。また双換掌式では体当たりをもその動きに含んでいる。八卦拳で歩法をひたすら練るのはその勢いを身法に使えるようにするためで、死角からの体当たりは八卦拳の得意とするところである。このように単換掌式、双換掌式の入身は八卦拳における攻防のベースとなるものなのである。八卦拳の「掌式」は全部で八種類あるが「換」が付くのは単と双の二つだけであるが、ちなみに龍形八卦掌には単換掌、双換掌に続いて上下換掌がある。ただ上下換掌は掌式の枠組みからすれが双換掌式に入れられる。動きからしてもその違いは腕の使い方だけで双換掌が前後の動きが強調されているのに対して、上下換掌では上下が用いられているだけで、入身の身法において違いがあるわけではない。龍形でこのようにあえて換掌を増やしているのは換掌が八卦掌にとってひじょうに重要であることを示すために他ならない。上下換掌と類似の動作を他の八卦掌では指天打地などと称している。指天打地を換掌に入れたのは形意拳の入身が起落の上下の動きを使ってなされることと関係しているかもしれない。上下換掌は形意拳的な入身の動としての換掌と考えることもできよう。

道徳武芸研究 八卦掌と入身〜単換掌と双換掌〜(2)

  道徳武芸研究 八卦掌と入身〜単換掌と双換掌〜(2) 単換掌や双換掌が各派にあるといってもその形がどれも同じということではない。これを考えるには八卦拳に伝わる「掌式」の秘伝を知らなければならない。「掌式」とは動きの原理のことである。一旦、技を動きの原理に還元して、そこから自在な動きに変化させようとする時に「原理」の探求が求められることになる。聞くところによると八極拳の六大開などもそこで伝えられるのは「原理」であるらしい。それはともかく八卦拳では単換掌式と双換掌式が伝えられている。これを具体的に動きとして示すと単換掌、双換掌となる。単換掌式は相手へ斜めに入身をするもので、これにより相手の攻撃を制すると共に、こちらの攻撃を入れることが可能となる。そうであるから「絶招」とされている。これを正面から行おうとすると、相手のディフェンスになかなか対応できないが、歩法を使って斜めから入る(入身)ことで、攻防においてより優位に立てることになる。

道徳武芸研究 八卦掌と入身〜単換掌と双換掌〜(1)

  道徳武芸研究 八卦掌と入身〜単換掌と双換掌〜(1) 形が各派によって一定しないとされる八卦掌であるが、単換掌と双換掌だけはどの派にも共通して見られるようである。また単換掌は破ることのできない技「絶招」であるともされている。単換掌と双換掌がどの派にもあるのは、それが八卦掌における入身の技であるからに他ならない。攻防において最も重要なのは、どのように相手と接触するか、である。よく武術では「どのように強く打つことができてもそれが当たらなければ意味がない」と言われる。一時、突きの強さを何キロなどと計測することが注目されたこともあったが、結局それでは武術としての何らの有効性も証明し得ないことが明らかとなって現在ではそうした計測で武術の特性や優劣を見るようなことはしなくかっている。武術における「威力」は相手との関係性において生じる複雑な要素において発揮される。そうした中で古くから特に重視されて来たのが入身である。

宋常星『太上道徳経講義』(20ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー5) 乱れている(荒)としても、それで終わりということではない。 「乱れている(荒)」とは心に徳を修していないからである。これは田が荒れるのと同じである。「終わりということではない」というのは最終段階ではないということである。「荒れているとしても」とあるところは、「分かりました」「嫌だ」という言葉を発した時と同じで、善悪が生じている。「分かりました」は善意から発せられているのであり、「嫌だ」は嫌悪から発せれれている。もし努めて善意を取ること無く、また嫌悪を断つことが無ければ、自分勝手な思いが強くなり、欲望が肥大化してしまうことであろう。強引、悪辣な行為が横行することとなろう。そうなれば日々、荒れて行き、それは際限のないものとなる。そして自らの心身を傷つけてしまうまで止むことが無い。そして最後には正しい天の理に戻ることもできなくなってしまう。この「荒れているとしても、それで終わりということではない」との一節には老子が世を救おうとする深い心がある。 〈奥義伝開〉整わない状態がけっして悪いとは限らない。それは多くの変化の可能性を有している。一般的には規格化した方が合理的と考えるが、それでは自由さが失われてしまう。宋常星は乱れていることを否定的にとらえているが、これは好ましくないであろう。人は心が乱れるから何かを求めようとする。この時にうまく修練の道に入ることができれば幸運であろう。大体において人は何も無い時には深く考えることをしない。危機的状態になって初めていろいろと考えをめぐらせる。その時こそが修行に入る良い機会となる。

宋常星『太上道徳経講義』(20ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー4) 他人が畏れるからといって、自分も畏れる必要は無い。 先には善と悪との違いについて述べられていたが、ここでは善悪の間にあるものについて述べている。それは「畏」であることは言うまでもあるまい。「他人が畏れるからといって、自分も畏れる必要は無い」とあるのは、つまり他人が畏れているからといって、むやみに自分も畏れる必要は無いということである。つまり他人が畏れていること、自分が畏れることとは関係がないということなのである。それはどういうことか。ここに善悪を知る鍵がある(善も悪もそれが行われてから喜んだり畏れたりすれば良いのであって、それが行われる前にあっては何らの思いを抱く必要もないわけである)。「嫌だ」「分かりました」と応じる(のも同様で)、それが口に出る前には善も悪もそこには無い。つまり畏れるべき何ものも無いのである。しかし「嫌だ」「分かりました」が口から発せられたなら、そこには善意や嫌悪が明らかとなる。そうした時に畏れ注意することが無ければ、災いや辱め、理不尽なことの害を受けることになる。 〈奥義伝開〉ここでは無闇な同調の危険について指摘する。こうしたことが起こるのは物事を深く考えていないからである。先の二つでは「量」や「質」において思考の転換が求められていたが、そうした俯瞰的な視点を得ることで他の人の言うことに流されなくなることを老子は教えている。それはまた合理的な考えを持つことでもある。よく試験を受けてから合否の発表を心配する人も居るが、こうした心配はしても仕方のないものである。また自分の望むところに合格してもそれが将来的に幸福かどうかは分からない。老子は合理的に考えて畏れる必要のないものを多くの人は畏れている、と教えているわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(20ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー3) 「嫌だ」ということと「分かりました」ということの差はどれくらいあるであろうか。「悪い」ことと「善い」こととの違いはどれくらいあるであろうか。 「分かりました」というのは、相手の言うことに対して応じて謹んで承諾をしようとするときに発せられる言葉である。「嫌だ」というのは、憤然として拒否する場合の言葉である。「分かりました」と「嫌だ」の違いを詳しく見てみると、これらは共に口から発せられている。等しく相手の言うことに応じて発せられた言葉である。ただ、その発せられた言葉の意味は全く違っているが、声を発していることについては違いはない。そのため「『嫌だ』ということと『分かりました』ということの差はどれくらいあるであろうか」とあるのである。つまり「嫌だ」と言うのと「分かりました」と言うのとでは、発声をしているという点においては何らの違いもないというわけである。「分かりました」というのは善意から出ている。「嫌だ」というのは嫌悪から出ている。つまり善意から発せられたのが「分かりました」であり、嫌悪から出たのが「嫌だ」ということになる。「分かりました」と応じた時には必ずそこには善意があり、「嫌だ」と答えた時そこには必ず嫌悪がある。善意と嫌悪とは全く違っている。そうであるから「分かりました」と「嫌だ」の違いも大きいことになる。そこで「『悪い』ことと『善い』こととの違いはどれくらいあるであろうか」と問いかけにおいて、これを意味の上から見て違うとするべきなのか、はたして発声をしているということにおいて同じと見るべきなのであろうか。清濁、軽重では違いがあるが、これらについてはどうであろうか(清い水と濁った水では水ということでは同じとなる。軽重も軽い石と重い石は同じく石である)。「嫌だ」と答えるところを全て「分かりました」と答えたとしたら、これは嫌悪から発していることを善意から発するものとしたことになり、これでは善意と嫌悪が正しく示されていないことになる。つまりあらゆることにおいても「分かりました」と「嫌だ」と同じことが言えるのである(比べる部分によって同じと見ることもできるし、違うと捉えることも可能となる)。 〈奥義伝開〉全く「反対」の立場のものも見方を変えれば同じと見ることができるようになる。学ぶことで利益、不利益となる違いが「量」的な視点から述べ

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(12)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(12) 一指禅は人指指に気を通すことで中指を活性化させることに眼目がある。これは日本の剣術でも同様で人差し指えを軽く使うことで中指が活性化されるのである。これが全ての指を使って固く剣を握ったなら中指が活性化されることはない。人差し指に適度なストレスをかけることで中指は活性化するのである。これにより円滑な腕の内旋、外旋が可能となり掌から拳、拳から掌などの変化も適切に行えるようになる。こうした人指し指や中指を開くことが重視されていることは太極拳や八卦掌で「掌」を用いることが多いことでも分かる。また同様の鍛錬は「御信用之手」でも行われていることは言うまでもなかろう。

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(11)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(11) よく大東流や合気道では人差し指だけを捕ませて相手を投げるパフォーマンスが行われるが、これも一種の「一指禅」ということができる。こうしたことを可能にするには多少なりとも指の感覚、そしてそれを通して相手の心身の状態を知ることのできる感覚が開けていなければならない。こうした心身の状態を「瞑想的な状態=禅」と称するわけである。これを指を使ってのパフォーマンスから我々は「指」そのものが重要であると勘違いしてはならない。実際こうした感覚は基本的には坐っての鍛錬法である「御信用之手=合気上げ=呼吸法」によって開くことが可能となる。おそらく西郷頼母は「御信用之手」をある種の秘教を伝える「まれびと」から得たのであろう。そしてその「まれびと」と武田惣角をつないだのであろう。惣角はそうした「まれびと」からいくつかの柔術技を学んだ。これを基に技を増やして行く一方で「まれびと」からは伝書が作られ続けていった。もし秘教を伝える「まれびと」の伝承がいまだに生きているなら、その実態を知ることができるのはまだ先になるのかもしれない。

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(10)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(10) 塩田剛三が開いた当身の可能性から見えてくるのは、中国武術の一指禅の秘密にまで及ぶものがある。一指禅は一本の指で相手を倒すとされ、この功を得るために指一本で倒立をしたりして指を鍛錬しようとする人もあるが、そうした鍛錬にはほとんど意味がない。一指禅そのものの意味を知るには、ここに「禅」とあることを見逃してはなるまい。「禅」つまり瞑想的、霊的なものとしてこの「一指の禅」はあるわけなのである。指と禅では「指月の譬」がよく知られている。映画「燃えよドラゴン」の冒頭でもブルース・リーがこれをして少年を教えるシーンがある。つまり重要なのは月を指す指ではなく月そのものである、という教えである。この時の指の形が「一指」となることから一指禅の名称は由来している。一指禅においては「一指」そのものが重要なのではなく、それが示している「月=禅=霊的な境地」が重要であることを忘れてはならない。そうであるか指を鍛えることには何らの価値もないのである。

道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(9)

  道徳武芸研究 大東流の「伝承」について(9) 塩田剛三が西郷四郎と同じく「御信用之手」に発する霊的力を会得していたことは前回に触れたが、その証拠となり得るものに塩田が開発した「体の変更」がある。これは合気道の基本的な体の変更を練習するためのものであるが、これこそが立った状態での「御信用之手」そのものということができるのである。要するに「御信用之手」で開かれる霊的な力とは心身の感覚が開かれることで生まれる特殊な心身の使い方にある。体の一部の感覚を研ぎ澄ましたり、力を集中させたりするのも、そうした感覚が開かれることによって可能となるわけである。塩田はそれに気づいていたようである。そして、より合気道の技に展開しやすい形として坐った状態での「御信用之手=呼吸法・合気上げ」ではなく、立った状態での「体の変更」を考案したものと思われる。またこれは体の変更によるタイミング(呼吸力)を練ることもできる。

宋常星『太上道徳経講義』(20ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(20ー2) 学ぶことを止めても心配は無い。 昔から今に至るまで聖人や賢人は少ない。ここで「学ぶ」とあるのは、こうした優れた人の学びではない。ここに「学ぶことを止めても心配は無い」としているのは、無駄なことを見たり聞いたりすること、下らない思いつきなどは無益であり、かえって害になることを言っている。また物欲、性欲などは学ぶ必要が無いわけで、けっして学問それ自体を否定しているのではない。もし、学んでよく性命の詳細な理を悟ることができたなら、よく陰陽の働きの道を悟ることができたなら、それを学んで実際に修行するべきであろう。そうして私欲を捨てて、天の理のままに生きることを学び実践する。天地の働きを妨げることのないようにして、国が栄え安泰であるようにする。こうしたことはまったく本当の儒教や本当の仙道を学んだ聖者にしてよく行うことのできるものであって、これもすべては学ぶことによって得られるものである。しかし、もし無益な学びをしたならば、かえってそうした境地に入ることの阻害となるし、悪くすれば邪な道に入ってしまうことにもなりかねない。そうなれば誤った考えにとらわれて、完全に正しい道を見失うことになる。学ぶことで目先の利益を得ようとすると、かえって害を得ることになろう。これはあらゆる学びに共通している。そうであるから「(誤った学びはそれを)学ぶことを止めても心配は無い」としているのである。 〈奥義伝開〉学ぶことで何らかの利益が得られるように思うが、老子はそればかりではないとする。通常の価値観と反対の価値を見出すことがあらゆる事象において可能であると教えるのは老子の基本的で、ここでも学ぶことを止めても不利益となるとは限らないとしている。人は必要なだけの情報を得れば良いのであって、それ以上の処理しきれない程の情報を得てもかえって混乱してしまう。また得られた情報の全てが正しいとは限らない。誤った情報が多く混入してしまうとかえって真実が見えなくなってしまう。情報は最小限で、それをよく吟味することこそが大切なのである。