宋常星『太上道徳経講義』(21ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(21ー2)

深遠なる徳(孔徳)の容(かたち)は、ただ道に依っている。

「深遠なる徳(孔徳)」とは一般的にいわれる「有為の徳」のことではない。あらゆる物の「容(かたち)」と「大いなる徳」は同じである。それは全てを受け入れている「太虚」と等しいものであり、「容」と「大いなる徳」の間に区別を求めることはできない。そこにはあらゆるものが含まれている。また反対に「大いなる徳」と「容」とが同であるとも言える。「ただ」とあるのは「ひとつ」ということで、「依っている」とは従うということである。「徳」はそれが他の物と別に存しているのではない。「徳」は必ず「道」によって存している。「道」による「徳」であるために(有為の徳とは異なり)「深遠なる徳」と称されているわけである。「大いなる徳」は天地の「徳」であり、聖人もこれを有している。この聖人の「徳」はまた天地の「徳」とも等しい。この世に存する物で「道」に依拠しないものはない。また聖人の「徳」も「道」によらないものはない。天地は万物を受け入れることができる。聖人もまた万人を受け入れることができる。つまり聖人はあらゆる民の「徳」を受け入れるのであり、天地はあらゆる物の「徳」をも受け入れるということである。すべては「一」であり、それが「徳」なのである。人は天地の大なるを知っているが、「大いなる徳」の大いなることを知らない。「大いなる徳」にはきまった形はない。天地にはそれぞれのものに形があり、それを通して天地のあることが分かるのであるが、形のないものを見ることはできない。もし色(物質)と空とが同じであることを悟ることができたならば、有無も本来的に「一」つなのであり、大地、大河も空の中から生まれたひとつの形なのである。自然は真に空なのであり、その働きは「深遠なる徳」と同じでもある。つまり天地はごく小さな空間にも収まるもので、微小な空間の中に崑崙山でも、世界の海でもそこに収めることができる。形にはきまった形というものはなく、どんな小さなところであっても、どんな大きなものをも入れることができる。大は小と等しいという秘密の教えは、天地だけではなく、聖人でも普通の人にも当てはまる。もし、個人の欲望にとらわれたならば、その徳は大きなものではなくなる。そうであるからそこに含まれることも限定したものとなる。「深遠なる徳」の奥義は、それが「道」によっているというところにあるが、それについてここで述べられているわけである。


〈奥義伝開〉「新たな認識」である「孔徳」の存しているところ(容)とは、つまりは「道」であるとする。「道」は道理であり、合理的思考でもある。つまり「新たな認識」は合理的思考から生まれると老子は教えているわけである。ひとは感情という渾沌とした認識の中から「一」としての合理的認識(道)を得て、初めて人としての適切な行動(徳)が可能となる。そして道はあらゆる存在に共通して働いているものでもある。


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