宋常星『太上道徳経講義』(20ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(20ー6)

多くの人が喜ぶのは、饗(もてな)しを受けた時であり、春に高台に登った時である。

ここと前の「荒れているとしても、それで終わりということではない」とは、世俗の楽しみを貪ること、世俗の快楽に溺れることが、如何に畏れるべきものであるかを知らない人が多いので述べられている。つまり喜ぶのは、他人と比べて喜んでいるのであり、それはおおいなる饗しを受けたり、春に高台に登るといった特別待遇を受ける時に感じる喜びと同じなのである。心の目をよく見開いて、よくよく見たならば、楽しみを貪る気持ちに果ての無いことが分かるであろう。そうであるから、ここにおおいなる饗しや春に高台に登ることをして、世俗の楽しみに溺れることを譬えているわけである。


〈奥義伝開〉人が喜びを覚えるのは肉体的なことや感覚的なことにおいてである。多くの美味なる食べ物を振る舞われたり、春に高台に登って気持ち良い風に吹かれたりするのは心地よいものではある。これに対して次にあるような一人で静坐をしているのは無味乾燥で何らの楽しみもないように思われるかもしれないがそうではない。こうした自分の外で得られた楽しみは、それをまた得るには自分以外のものに頼らなければならない。豪華な食事に招待してくれる人、高い塔、春などがなければならない。しかし本当に楽しいことは心の中にこそあるのである。


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