宋常星『太上道徳経講義』(20ー10)

 宋常星『太上道徳経講義』(20ー10)

愚か(忽)なのは海のようで、漂って留まるところが無い。

世俗の人は、何でも分かっていたり(昭昭)、細かなことまでよく吟味をしている(察察)が、それらは自分勝手な思い込みであり、けっして正しいものではない。そしてそうしたところからは正しくない感情が生まれ出るが、それは海のようで果も無く漂い流れて、無限に落ちるところまで落ちて行く。そうであるから、愚か(忽)なのは海のよう、としているのであり、その漂うことは留まることが無いとある。本当に人は穢れた世にある。妻子は居るし、名声や金銭にも目が行って、止むことが無い。それは波に揉まれているようでもあり、こうした欲望の岸から離れて「彼岸」へと至ることもできない。ただただ苦海にあって、漂うに任せている。もし、よくこうしたことが分かったならば、自分を振り返って欲望から離脱するべきである。道は遠い彼方にあるのではなく、ごく身近にあることであるのであるから。


〈奥義伝開〉宋常星は「忽」を好ましくないものとして受け取っているが、そうではあるまい。これは前の「昏」や「悶悶」を受けて述べていることで、静坐のもうひとつの秘訣である「忽」が語られる。「忽」とは何も考えられないような愚か者のことであるが、そのように特定の思いにとらわれることがないのが静坐である。仏教も坐禅を重視するがそれはあくまで仏教教理を自分に刷り込むために他ならない。しかし、経典を見てみると坐禅をして仏教の教えは価値がないものと気づいて離れていく人の居たことが記されている。これが自然な瞑想であり、大海原を自由に泳ぎ回るように、どのようにも自分の考えを自由に解放することが重要なのである。それが「忽」字の秘訣ということになる。


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